齋藤傳一郎(斉藤伝一郎)頌徳碑

明治の西島で治水と農地拡大に尽力した齋藤傳一郎の功績を称える石碑

齋藤傳一郎頌徳碑、正面

齋藤傳一郎頌徳碑

齋藤傳一郎頌徳碑、碑題

碑題、頌徳碑

齋藤傳一郎頌徳碑、周辺

西島旧堤防上を走る県道342号

齋藤傳一郎頌徳碑、銘文

銘文(表)

碑の内容
  • 碑題、頌徳碑。
  • 齋藤傳一郎は西島(現焼津市西島)の人。弘化4年(1847年)大洲村(現藤枝市大洲)に生まれ、若くして齋藤家を継ぎ、壮年時に村会議員・村助役などを務めた。また、先覚・村松半兵衛に師事し、西島報徳社を結成した。西島に新堤と新たな農地をもたらし、開拓に励んだ。明治43年12月、病のために亡くなった。
  • 西島は大井川に接し、昔から水害をこうむること甚だしかった。慶長・元和(1596~1624年)の頃は高7百余石・戸数79だったのが、数度の洪水で荒廃した後は高97石・戸数17に減り、疲労困憊に達した残存住民が僅かに生計と村名を維持していた。
  • 齋藤傳一郎は西島の復興を願い、静岡県令大迫貞清に訴え、無利息年賦救済金を資金として堤外河敷1町7反歩(約1.7ヘクタール)を得た。
  • 相川村相川(現焼津市相川)の県道を終点とする堤防改修工事計画があった。齋藤傳一郎は先に得た河敷を堤防で囲うことを計画し、改修工事を300間(約545m)延長するよう当局に嘆願した。その熱意が受け入れられ、堤防延長工事がなされた。
  • 明治38年開墾に着手、明治42年7月開拓の大業を完遂。この事業の成功によって6町歩(約6ヘクタール)の農地を得、農家がしだいに増えた。
解説

大井川は古くから暴れ川として知られ、下流部ではしばしば大規模な水害が発生しました。この碑には江戸時代初期の水害の様子が記されていますが、齋藤傳一郎が生きた明治の頃にも水害は何度も発生しました。例えば、西島では明治7年(1874年)6月の大洪水で堤防が破壊され、農地と宅地の大半が荒野に帰し、農作物が全滅する事態に陥りました。

川沿いの地域からは、国に対して治水事業の必要性を訴える声がたびたびあがりました。齋藤傳一郎はその声をあげた内の一人です。明治14年(1881年)頃、大井川左岸下流の村々が連名で堤防修築の補助を県に求めた「大井川堤塘増築願」に、齋藤傳一郎は西島村戸長として名を連ねています。

「相川村相川の県道を終点とする堤防改修工事計画」とは、明治29年度(1896年度)から始まった大井川河身改修工事のことです。国の治水事業として、明治33年度(1900年度)までに大井川下流域で堤防の増改築を行う計画でした。ところが、西島はこの工事の範囲に含まれていませんでした。

工事の終点とされた「相川村相川の県道」とは、当時あった県道横須賀街道のことです。田沼街道・相良街道などとも呼ばれた道で、現在の国道150号富士見橋付近に橋を架け大井川を渡っていました。工事範囲はこの橋の上流側までとされ、橋の下流側に接する西島以下は工事が行われない予定だったのです。

相川ではこの工事で旧堤の外側に新たな堤防が築かれており、齋藤傳一郎はこれを西島まで伸ばすべく当局に働きかけました。西島以外の村々からも工事延長の請願が繰り返し出され、これらを受けて、工事の続行が決定されます。

西島の新堤は明治34年度(1901年度)に完成しました。国としての事業は明治35年(1902年)に完了し、その後の工事は県に引き継がれました。

*名前の漢字が石碑に書いてある通りに再現できているかどうか自信がないので、タイトルでは新字に改めたものを併記しておきました。

参考文献
静岡県志太郡役所編『静岡県志太郡誌』1916年(国立国会図書館デジタル化資料
五月会静岡県静岡土木事務所編『静岡県の土木史』1985年
建設省中部地方建設局編『郷土の碑を訪ねて』1987年
大井川町史編纂委員会編『大井川町史』下巻、1992年
kasen.net:石碑の語る治水・利水・災害の歴史
静岡県/交通基盤部河川砂防局砂防課/その他の情報/砂防関係の石碑
国土交通省国土地理院:paleogeography(古地理調査 狩野川・安倍川・大井川川の流れと歴史のあゆみ)
国土交通省:河川整備基本方針>大井川水系
静岡河川事務所

最終更新:2013年11月3日 ページ作成:2013年11月3日