田中城大手口の松原木戸跡にあった大松と外堀跡の秋葉神社常夜灯
秋葉神社の石灯籠と石祠 |
秋葉神社祠 |
「天保六乙未年三月」 |
外堀跡の標柱と松原木戸の交差点 |
藤枝宿方面から松原木戸への道 |
石灯籠と石祠は田中秋葉神社のものです。祠の規模からすると、この近所の方々が講をつくって信仰していたものではないでしょうか。秋葉権現の信仰は江戸時代中ごろに盛んになったといい、東海道が通る当地域でも地区ごとに祀る秋葉神社の小祠や常夜灯をよく見かけます。
田中城跡保勝会が発行した『亀城』第1号によると、ここにはもともと鶴松という大松が植えられていて、そのかたわらにこの秋葉神社が祀られていたそうです。松は交通安全の必要上から2010年(平成22年)6月に伐採され、そのさいに石灯籠の位置なども少し変更されたようです。
秋葉神社境内のすみに建てられた標柱が示す通り、そもそもここは田中城の外周を囲んでいた四の堀の跡地です。田中城本丸は現在の西益津小学校の位置にあり、四の堀は本丸を中心とした円形の堀でした。そして神社前の交差点付近には、松原木戸という藤枝宿方面から城へと通じる道の城の入り口がありました。
松原木戸の松原というのは、木戸に至る道の両側に松並木があったことを由来とします。田中城の正門はもとは城北東側の平島にあったのですが、この松原木戸の道がつくられたあとはこちらが正門すなわち大手となりました。この大手口の整備を行ったのは、田中藩初代藩主の酒井忠利とされています。
秋葉神社にあった鶴松は、その初代は松原木戸築造のさいに植えられたものと伝えられています。地元では城主御手植えの松ともいわれていたようです。背が高くすっと伸びた様子が鶴のようだというので「鶴松」と呼ばれていました。かつては向かいに低くて太い亀松もあったといいます。この初代鶴松は昭和6年(1931年)に枯死のため伐採されました。
初代鶴松は戦前の映画『大楠公』のロケ地となったそうで、その撮影の様子をとらえた写真が『目で見る志太の100年史』に掲載されています。同書によれば昭和初期ごろの話で主演は大川広二だったとのことなのですが、この映画の存在が確認できていません。楠木正成は戦前に非常に人気のあった武将ですから、彼を題材とした映画は多数あります。昭和6年には鶴松が枯死していることからすると、大正10年(1921年)の尾上松之助主演『大楠公』か、大正15年(1926年)の井上正夫主演『大楠公』が該当しそうかなと思うのですが、はたしてどれだったのでしょうか。
初代伐採後に植えられた2代目はすぐに枯れてしまい、その次に植えられた3代目鶴松が平成22年(2010年)まで残されていました。この3代目の写真は先にあげた『亀城』で見ることができます。植えられた当時すでに樹齢120年ほどだったといい、伐採前には立派な大松に育っていたことが写真からもわかります。伐採の原因となった交通安全の問題とはこの松の大きさに起因するものと推測され、しかたのないこととはいえ皮肉な結末には寂しさをおぼえます。
ところで、大正2年(1913年)に発行された『西駿大観』という本に「田中城址遠望」という写真が掲載されているのですが、この写真の中央に見えるひときわ背の高い松が初代鶴松かもしれません。田中神社や満願寺がある村岡山から田中城方面を見下ろしているものとみられ、手前に少しだけ写っている道は現在の国道30号、松が並んでいる道は松原木戸へと向かう現在の県道224号と推測されます。
この写真を見ると、初代鶴松が誇った威容をわずかながらも感じることができます。これだけの高さがあれば、かなり遠方からもその姿を望むことができたでしょう。『亀城』に掲載された初代鶴松伐採時の小学生の作文には、鶴松が健在だったころには遠来の行商人や車夫がその木陰で休んでいったことが書かれています。田中城入り口の目印として、あるいは藤枝宿への目印としても、人々の心に残る象徴的な存在だったのではないでしょうか。
なお、境内にはこの周辺一帯で行われた城南土地改良事業を記念する石碑が設置されています。この碑の銘文を読むと、かつてのこの地域がどのようなところだったかを少しだけ知ることができます。詳しくは「城南土地改良記念碑『愛土愛国』と故理事長池田延二先生顕彰碑」で紹介しています。