明治43年に起きた大洪水の記録
正面 |
まわりは桜の名所です |
看板アップ |
瀬戸川堤防上の桜並木の道を、勝草橋の南たもとから上流に向かって歩いていくと、金比羅山の少し手前の左手に並んで建っています。
石碑の「堤防決壊箇所」とは、ここが明治43年8月に発生した瀬戸川大洪水のさいの破堤箇所であることを示しています。『青島の野仏』によれば、瀬戸川流域に甚大な被害をもたらしたこの洪水で、最初に堤防が決壊したのがこの場所だったといいます[1]。
右端の題目塔はかなり古いもののようで、表面の文字がかなり読みづらくなっています。表面の文字は見えづらいものの「南無妙法蓮華経」で間違いないものと思われ、側面の「如日月光明」云々というのは法華経の一節です[2]。日蓮宗の方が建立した供養塔だったのでしょうか。
なお、日を改めて訪れたところ、題目塔に天保14年(1843年)の文字が読み取れました。これは水害とは無関係に建立されたものだった可能性が高そうです。おそらく大洪水後に、災害犠牲者の供養や災害の再発防止祈願のために、この決壊箇所に移設されたのではないでしょうか。
明治43年(1910年)8月初旬は梅雨前線がもたらした雨が降り続き、さらに11日から14日にかけては二つの台風が接近、豪雨となり、東日本各地で甚大な水害が発生しました。この年の干支をとって庚戌の大洪水とも呼ばれる、その後の治水政策にも大きな影響を与えた大水害です。[3][4]
志太郡では2日から雨が降り続き、7日ごろから豪雨となり11日まで降り止まず、山間部では山崩れが多発、河川は氾濫し、30名もの死者が発生しました。[5]
このとき被害が大きかったのが瀬戸川流域でした。上流の瀬戸谷で600ヶ所以上もの山崩れが発生し、瀬戸川に流れ込んだ土砂が排水を妨げ、ついには堤防を破壊するまでに増水しました。また、この洪水の影響は支流の朝比奈川や葉梨川にも及び、広い範囲で氾濫を引き起こしました。瀬戸川全川での破堤は216ヶ所、藤枝・焼津のいたるところが大湖水と変じ、多くの家屋や田畑が失われました。[6]
当時の青島村では、9日の午前9時20分ごろに瀬戸川の勝草橋が流失、続いて志太と稲川で堤防が破壊されました。さらに内瀬戸谷川や栃山川でも出水があり、東海道線以北は一面濁流に覆われた大河川のようなありさまになってしまったといいます。東海道付近では水深が1m以上に達し、往来に船が必要となるほどでした。このときの様子は『青島町誌』に詳しく記録されています。[7]
なお、翌明治44年(1911年)6月にも再び大きな水害が発生しています[8]。水害に襲われた土地は荒れ果て、土砂が堆積するなどしてまったく旧態を失ってしまった場所もありました。これを復旧するにさいして、各地で区画整理や耕地整理が行われました。たとえば、青島村では高洲村とともに青島高洲高地整理組合を結成し、土地や水路を根本から改良する事業に取り組んでいます[9]。