西光寺と関係がある?瀬戸川堤防上の石仏4体
4体の石仏 |
奥に進むとふれあい大橋に出る |
賽銭泥棒が出たそうな |
覆い屋の中に左から、馬頭観音文字碑、地蔵立像、地蔵座像、石仏(地蔵?)が並んで祀られています。さらに、なんと賽銭泥棒が出たそうで、泥棒に対する警告が貼られていました。
馬頭観音文字碑は、四角い石碑に「馬頭観音」と刻まれています。ほかにも何か文字があるようなのですが、汚れが付着していて読み取れませんでした。
地蔵立像は、光背に「昭和二年八月廿四日、松永氏」と銘があります。
地蔵座像は4体の石仏の中で最も大きく、片膝を立てたポーズ(半跏)をとっています。右端の石仏は風化が進み頭部が欠損してしまっていますが、おそらくこれも地蔵座像ではないかと思いました。この2体の石仏には銘は見つかりませんでした。
『青島の野仏』によると、ここには2体の延命地蔵と1体の川除地蔵が祀られているとのことです。3体ある地蔵のうちどれがどれかは不明ですが、『焼津市史』には川除地蔵のサイズが縦57.5cm×横38cmと書かれており、おそらく最も大きい座像が川除地蔵なのではないでしょうか。
また、『青島の野仏』によると、この石仏群の供養は8月24日に行われ、そのさいに西光寺(藤枝市藤枝3丁目)の住職が読経を行なうとのこと。西光寺は現在は瀬戸川対岸にありますが、古くはこちら側の五州岳(藤枝市瀬古、志太温泉北側の山)の山上にあったといいます。ここから瀬戸川を少し上流にさかのぼった志太3丁目にある石仏でも同じように西光寺に供養を頼んでいたそうで、この付近には西光寺の檀家さんが多いのでしょうか。
なお、『青島の野仏』では、この石仏群は、西光寺が五州岳にあったころから祀られていたのではないかと推測しています。『西駿大観』によれば西光寺の移転は永享元年(1818年)のことだそうで、もしこの推測が正しければ、この石仏群にはそうとう古い歴史があるということになります。