千葉山智満寺へと登る人々を見守ってきた石仏と道標
道標前から丁仏参道方向を見る |
丁仏参道入り口の石仏群 |
尾川丁仏参道 |
地蔵立像と元台石の石碑 |
道標の4面 |
島田市尾川から同市千葉の山中に建つ千葉山智満寺へと登る尾川丁仏参道の入り口に、これらの石仏・石碑が置かれています。
「00shizuoka静岡観光おでかけガイド」[1]によると、地蔵立像と馬頭観音aは元は覆屋の中に納められていました。地蔵と馬頭観音aが置かれているコンクリートの土台の四隅に小さな四角い穴があったのですが、これは覆屋の柱の跡だったようです。また、現在は地蔵の脇にそえられている石碑は、元は地蔵の台石でした。となると、元台石の石碑に刻まれた天保14年(1843年)という年号は、地蔵が建立された年でもあるのかもしれません。
台石に千葉山への道が示されていることからすると、この地蔵は千葉山智満寺参道の道しるべとして建立されたものだったようです。ここから智満寺へ登る道には1丁(約109m)ごとに石仏が置かれているため「丁仏参道」と呼ばれているのですが、これら丁仏は慶応2年(1845年)に島田宿や近在の信者らによって寄進されたのだそうで[2]、これは参道入り口の地蔵が建立された2年後のことです。このころに智満寺参道を整備したくなるようなきっかけが何かあったのかなということが気になっているのですが、今のところ不明です。なんであれ、このような寄進物の多さは当時の智満寺の人気の高さを物語るものではあるでしょう。
道標も地蔵と同じく智満寺参道の案内として設置されたものです。建立時期は不明ですが、「支部」などという単語が用いられていることからすると、どんなに古くとも明治時代より前にさかのぼることはないだろうと私は考えました。他所では青年会が道標や灯篭などを建てている例をよく見るので、もしかしたら大津村青年会尾川支部だったのかな?と想像するのですが、どうだったんでしょうか。
この道標には、「島田町往」という旧島田町(現在でいえばJR島田駅方面)へ向かう道と、千葉山へ向かう新旧の道があるということが示されています。「島田町往」はこれ以下の部分が隠れて見えないのですが、おそらく全文は「島田町往還」になるものと推測され、かつて島田伊久美往還[3]と呼ばれた現在の県道217号のことを指しているのではないでしょうか。また、千葉山旧道は尾川丁仏参道を指し、新道は道標が面している市道尾川千葉線を指しているようです。現在では石碑にいう旧道はハイキングコースとして人気があり、新道である市道尾川千葉線は智満寺まで自動車で行きたい場合によく使われるようです[4]。