明治の西島で治水と農地拡大に尽力した齋藤傳一郎の功績を称える石碑
碑題、頌徳碑 |
西島旧堤防上を走る県道342号 |
銘文(表) |
大井川は古くから暴れ川として知られ、下流部ではしばしば大規模な水害が発生しました。この碑には江戸時代初期の水害の様子が記されていますが、齋藤傳一郎が生きた明治の頃にも水害は何度も発生しました。例えば、西島では明治7年(1874年)6月の大洪水で堤防が破壊され、農地と宅地の大半が荒野に帰し、農作物が全滅する事態に陥りました。
川沿いの地域からは、国に対して治水事業の必要性を訴える声がたびたびあがりました。齋藤傳一郎はその声をあげた内の一人です。明治14年(1881年)頃、大井川左岸下流の村々が連名で堤防修築の補助を県に求めた「大井川堤塘増築願」に、齋藤傳一郎は西島村戸長として名を連ねています。
「相川村相川の県道を終点とする堤防改修工事計画」とは、明治29年度(1896年度)から始まった大井川河身改修工事のことです。国の治水事業として、明治33年度(1900年度)までに大井川下流域で堤防の増改築を行う計画でした。ところが、西島はこの工事の範囲に含まれていませんでした。
工事の終点とされた「相川村相川の県道」とは、当時あった県道横須賀街道のことです。田沼街道・相良街道などとも呼ばれた道で、現在の国道150号富士見橋付近に橋を架け大井川を渡っていました。工事範囲はこの橋の上流側までとされ、橋の下流側に接する西島以下は工事が行われない予定だったのです。
相川ではこの工事で旧堤の外側に新たな堤防が築かれており、齋藤傳一郎はこれを西島まで伸ばすべく当局に働きかけました。西島以外の村々からも工事延長の請願が繰り返し出され、これらを受けて、工事の続行が決定されます。
西島の新堤は明治34年度(1901年度)に完成しました。国としての事業は明治35年(1902年)に完了し、その後の工事は県に引き継がれました。
*名前の漢字が石碑に書いてある通りに再現できているかどうか自信がないので、タイトルでは新字に改めたものを併記しておきました。
最終更新:2013年11月3日 ページ作成:2013年11月3日