明治時代に整備された静浜街道(通称・池谷街道)の大崩上り口に建つ道標
銘 |
正面の山腹に県道416号が走る |
虚空蔵山西麓沿いの道を北へ向かって進むと右手に現れます。現在の道を道標が指す方向に進むと焼津グランドホテルの敷地に入ってしまいますが、元々は静浜街道(池谷街道)という静岡市駿河区石部まで続く道がありました。
上述の通り道標の文字は一部読み取れなくなってしまっているのですが、元あった道が静岡まで続いていたというバイアスがかかっているので、ついつい「しずおか道」とあったのではないかと思ってしまいます。補修跡の上に文字の頭だけが見えていて、これが縦棒に短い横棒が交差しているようなのです。もしや「志づお可道」だったのではないかなーと想像するのですが、実際のところは「(お?)」も本当に「お」なのかどうか怪しく、よくわからないというのが正しいです。
一応、“凡三里”とあるのはだいたい12kmほどで、これが道標から静岡市役所付近までの道程の距離にはあたります。この先に他にめぼしい目的地もないので、「しずおか道」説の傍証にはなるのではないかと考えますが、どうでしょうか。
静浜街道は、明治19年(1886年)ごろまでに整備された、現在の静岡市駿河区石部から榛原郡吉田町片岡までをつないでいた有料道路です。明治初期の志太郡沿岸部には田中を縫って進むあぜ道のような道しかなく、そこにはじめて整備されたまっすぐな道路が静浜街道でした。宗高村(現・焼津市宗高)の池谷政一郎によって建設されたもので、明治37年(1904年)までは建設費償却のため通行料として道銭・橋銭を徴収していました。地元では建設者の名をとって池谷街道と通称され、後には通称の方がよく知られるようになりました。
浜当目では、モトミチと呼ばれる海沿い集落の中央を貫く道が静浜街道だったといいます。瀬戸川の現在石脇川水門がある付近に那閉崎橋(赤池橋とも)という木橋が架かっており、そこから集落の中をほぼまっすぐに進んで虚空蔵山に突き当たり、その西麓沿いを通って焼津市・静岡市境にそびえる大崩に上りました。道標が建つ場所は、大崩の上り口にあたります。
大崩の山上に上った静浜街道は、しばらくは崖の上を進み、元小浜の手前で浜に下り、その後は波が打ち寄せる浜沿いを石部まで進みました。大崩は、本州中央部の南アルプスから延々と連なってきた山が海に直面する断崖絶壁の海岸で、崩れやすい灰色の岩の壁が3km以上にわたってそびえる難所です。かつてはこの麓に浜が広がっていて、江戸時代以前から安全とは言い難いものの通行することはできました。静浜街道はそこを改修して通りやすくしたのですが、それでも徒歩以外では通れない険しい道でした。
静浜街道は前述の通り有料道路で、『ふるさと東益津誌』によると大崩では往復2銭の道銭が必要でした。険路のうえに通行料の負担まであったわけですが、それにも関わらずこの道はよく利用されたといいます。この当時、焼津・静岡間を直接結ぶ道は、静浜街道以外には、明治22年(1889年)開通した鉄道東海道線しかありませんでした。鉄道開通当時の運賃は焼津駅・静岡駅間では片道8銭ほど、同じ金額で米が1升以上購入できました。静浜街道の需要の多さは、このような料金事情も影響したと見られます。
静浜街道と鉄道以外に道を選ぼうとすれば、西の藤枝・岡部に大迂回して宇津ノ谷峠を越えるか、全く整備されていない険しい山道の日本坂を越えるしかありませんでした。静浜街道は険しくとも整備はされており、『焼津市誌』によると“便利な近道”として利用されました。利用者には商売のために焼津から静岡へ行く者が多かったといいます。浜当目の道標が建てられた明治35年(1902年)はまだ道銭を徴収していた期間ですが、そのぶん道の維持もよく行われ、道標を建てるほど多くの通行があったのでしょう。
しかし、やがてこの大崩沿いの道は通れなくなりました。波の浸食による浜の縮小が原因だったようです。通れなくなった時期は不明ですが、『定本静岡県の街道』では明治末までは通れたとしています。また、大正5年(1916年)に編纂された『静岡県志太郡誌』にある大崩道中記(pp.1349-1350)には、服を濡らしながら海岸の岩を踏み進んだとあり、このころには道に波打ち際が迫っていたことがうかがえます。おそらく、大正初期には、いつでも通れる便利な道ではなくなっていたのではないでしょうか。
静浜街道は、通行料の徴収を終えた明治37年(1904年)以降は、沿線の村々が管理する一般道となりました。当時の村が財源もなしに土地ごと失われていく道を維持するのは難しかったと思われます。また、このころには鉄道・自動車による大量運輸が一般化し始めており、荷車すら通れない道を無理をしてまで維持する必要もなくなっていたのかもしれません。
大正9年(1920年)、大崩に再び道路が整備されることが決定します。県道静岡川崎線といい、現在の静岡市から牧之原市までを海沿いに結ぶ路線でした。後に国道150号(現・県道416号)となるこの道路は、大崩の山腹を開削し3本のトンネルを掘り、海を見下ろして走る道路になりました。その県道静岡川崎線の大崩の焼津側上り口に架かる当目橋の欄干には、静岡まで12kmという道標が刻まれています。