田中城の南側、益津ヶ原の圃場整備事業、城南土地改良区完成記念の碑
愛土愛国 |
裏面の概要沿革 |
故理事長池田延二先生顕彰碑 |
愛土愛国碑裏面の概要によると、城南土地改良区は、当時の藤枝市益津下・長楽寺・郡・田中と焼津市保福島を対象とした圃場整備事業です。昭和41年(1966年)4月12日に組合設立が認可され、同年11月に着工、昭和48年(1973年)11月に事業完了を迎えました。
事業名の城南とは、現在の西益津小学校付近にあった田中城との位置関係から付けられたものでしょう。事業区域は、現在でいえば藤枝市緑町・益津下・立花・城南・田中・郡と焼津市保福島のあたりで、おおまかにいえば城の南側の地域といえます。碑によれば、この地域は古くは「益津ヶ原」と呼ばれたそうです。
土地改良前の益津ヶ原には、北側には水はけの悪い湿田地帯が広がり、いっぽうで南の瀬戸川沿いでは砂礫層が水を逃がしてしまうため用水不足を引き起こすという状態でした。これを解消するために昭和29年(1954年)から県営六間川清水川土地改良事業によって水路の改修が行われ、それに続いてより抜本的な農地改良を目指したのが城南土地改良事業だったというわけです。
田中城は武田信玄にも堅牢の地と評されたといいますが[1]、その堅牢さには周囲に広がる湿田地帯が一役買っていたということが碑に書かれています。農作業を困難にした底なし沼のような田は、城を攻める軍勢の足をも絡めとったことでしょう。外堀(四の堀)とつながっていた六間川には船便が入っていたともいいますし[2]、昔は本当に水が豊富な土地だったようです。かつて城周辺を湛水させた湧水の名残りは、現在も区域内に残る姥ヶ池や青池などに見ることができます。
なお、これらの碑が置かれている場所は田中城の外堀跡で、碑の前に見える交差点付近には松原木戸と呼ばれた田中城の門がありました。また、碑のかたわらに建つ秋葉神社の前には、近年まで鶴松という松の大木が植わっていたのだそうです。これらについては「田中秋葉神社と松原木戸の鶴松」で紹介しています。