府県道島田焼津線開通之碑

現在の静岡県道222号上青島焼津線、志太郡の東西を結ぶ枢要の道路の開通記念碑

府県道島田焼津線開通之碑

府県道島田焼津線開通之碑

府県道島田焼津線開通之碑と鏡池堂

左の建物が鏡池堂

府県道島田焼津線開通之碑、周辺

静岡県道222号上青島焼津線

府県道島田焼津線開通之碑、銘文

銘文

碑の内容
  • 碑題、府縣道島田焼津線開通之碑。
  • 府県道島田焼津線は、島田町・六合村・青島町・高洲村・豊田村・焼津町を結び、志太郡中央を東西に貫通する枢要の路線である。この路線には昔から城之腰街道と称する道路が存在したが、狭く屈曲甚だしい道で、自動車の通行など到底望めなかった。
  • 前記関係町村当局はこれを改善すべく大正12年(1923年)道路組合を組織し、大正13年度(1924年度)から県費補助を得て改築着工、大正15年(1926年)11月には府県道に移管された。
  • “県費多端ノ折柄”工事は思うように進まず、全通までなお5年を要すると見られるなか、青島町有志より工事費立替えの申し出があった。鈴木菊次郎・石橋元治郎・石川𨨞次郎・鈴木庄太郎の4名で、本道路開通後に乗合自動車営業権を得られるよう尽力することを条件に、未改築延長約4kmあまりの工事費28,100円を無利息で一時立替えるというもの。
  • 改築工事費寄付組合は有志による立替えを受納し、県に陳情。県参事会の議決を経て、昭和6年度(1931年度)“一気呵成ニ工事ヲ施行シ”、12月に道路全線開通となった。
  • 焼津町・青島町・島田町間の自動車交通は従来藤枝町を迂回していたが、本道路開通によりその距離を20町(約2km)あまり短縮することができた。このことが地域の産業・交通・文化に貢献するところは大きい。さらに、目下開削工事中の府県道静岡川崎線の用宗・焼津間開通の暁には、本道路の利用が一段と頻繁になることは疑うべくもない。本道路の使命は将来ますます重要になるだろう。
  • 府縣道島田焼津線改築工事費寄附組合管理者・青島町長・青島鋼太郎の撰文ならびに書。
解説

府県道島田焼津線は、現在の静岡県道222号上青島焼津線の前身です。東海道本線五ケ堀踏切付近に旧道となった部分がある(焼津市五ケ堀之内、地図では旧道に青島焼津街道の表示あり)以外は、県道222号とほぼ同じ場所を通っていたようです。

県道島田焼津線は、東海道の宿場があった島田と焼津・城之腰の港を結ぶ道路です。この路線には古くは城之腰街道もしくは浜街道などと呼ばれた細く屈曲した道があり、江戸時代には年貢米を載せた荷車がこの道を通って焼津港へ向かったといいます。明治に始まった自動車交通に対応するため、大正12年(1923年)に沿線町村で浜街道を改修することが決定し、昭和6年(1931年)県道島田焼津線が開通しました。

島田焼津線の起点は島田町(現・島田市)となっていましたが、起点から青島町(現・藤枝市)下青島までは国道1号を重用。開通之碑が建っている瀬戸新屋が実質的な起点で、鏡池堂西側で国道1号を分岐、終点焼津町(現・焼津市)城之腰までをつないでいました。

国道重用区間を除いた延長1里35町20間(約7.78km)、幅員3間(5.45m)。この道路が開通したことによって島田町・青島町・焼津町間の交通が非常に便利になったといいます。県道222号となった現在でも交通量が非常に多く、碑にある“本道路ノ使命ハ将来益重要ナリト云フベシ”の一文のとおりになりました。

なお、国道1号は昭和32年(1957年)に上青島一里山以東に新道が開通し、青島地区の旧来の国道1号はほとんど旧道になりました。この旧国1の上青島一里山から瀬戸新屋鏡池堂までと、それに続く県道島田焼津線とを合わせたものが、現在の県道222号となっています。

碑の内容に加え参考文献から補完した開通までの経緯は以下のとおりです。

  • 大正12年(1923年)、島田町・島田町・六合村・青島町・高洲村・豊田村・焼津町が協議し、青島町外五ヶ町村道路組合を設立。
  • 大正13年度から、県より補助費を受けて改築工事を開始。
  • 大正15年(1926年)11月13日、静岡県告示第541号をもって府県道に認定。
  • 昭和2年度(1927年)から、工事費が県の支出となる。これをもってこれまでの道路組合は解散し、府県道島田焼津線改築工事費寄付組合を設立して地元より寄付金を募るなど事業の促進をはかった。
  • 昭和5年(1930年)5月発行の『青島町誌』の記載では、いまだ工事中だが焼津町・青島町地内はほぼ完了、全通は数年内としている。碑に記されている青島町有志による工事費立替えの記述がないことから、これは町誌発行後の出来事ではないかと推測する。
  • おそらく昭和5年か6年ごろ、碑に記されている青島町有志による工事費立替えの申し出があった。資金不足の問題が解消したため、昭和6年度に入って工事は一気呵成に進められた。
  • 昭和6年(1931年)12月、全線開通。

なお、碑の建立日の中秋というのが旧暦8月15日という意味なら、新暦では1935年9月12日にあたります。

関連項目
県道島田焼津線の前身・浜街道に建つ道標を兼ねた八兵衛碑:追分の小長谷八兵衛之碑
参考文献
静岡県志太郡青島町編『青島町誌』1930年(近代デジタルライブラリー
焼津市誌編纂委員会編『焼津市誌』上巻、1955年
藤枝市立青島南公民館編『平成11年度第10回青島南風まつり 藤枝駅と青島』2000年
静岡県道222号上青島焼津線 - Wikipedia
旧暦カレンダー - 高精度計算サイトkeisan