![]() 銘 |
![]() 延命地蔵堂 |
![]() 右端が八兵衛碑 |
『続・ふるさと草誌』[2]によると、この八兵衛碑は以前は付近の川のそばに祀られていたが、市道拡幅工事のさいにお堂境内に移設されたのだそうです。お堂のそばを大井川用水榛原幹線用水路が通っており、八兵衛碑旧地はこの用水路を南へ少し下ったところだったようです。なお、大井川用水整備前にもほぼ同じ場所を川が流れており、用水路として改修される前には現在とは別の名前で呼ばれていたはずですが、なんという川だったのでしょうか。
お堂の名前などは現地では確認できませんでしたが、『続・ふるさと草誌』によれば本尊は延命地蔵尊とのこと。八兵衛碑とともに並ぶ石塔はほとんどが古い墓のようでしたが、目に付いたものとしては巡礼供養塔と「六部之墓」というものがありました。巡礼供養塔は巡礼を完遂した記念に建てたもののようで、寛政11年(1799年)の年号のほか、遠江三十三所・西国三十三所・秩父三十四所の3つの霊場の名が刻まれているようです。「六部之墓」のほうは自然石様の石塔にただそのように刻まれているだけで、建立年代やどういったいわれがあるものなのかは全くわかからないのですが、おそらくこの地で亡くなられた旅の六部さんを弔ったものなのかなと想像しました。
なお、『続・ふるさと草誌』によると、坂本の八兵衛碑は現在では特別な供養などは行われておらず、近隣の方がひっそりと世話を続けておられるということです。しかし、以前は盛大な供養祭が開かれ余興に芝居がかかったこともあったという話が『川中島八兵衛見聞の記』[3]に記録されています。これが八兵衛さん単独の祭だったのか地蔵堂の縁日だったのかはっきりしないのですが、地蔵の縁日も八兵衛さんと同じくお盆のころというところが多いことからすると、地域に祀られる諸仏の供養祭として行われたものだったのではないかと私は想像しました。
戦前には神社や地蔵堂などの祭礼にあわせて村芝居や花火の打ち上げなどが行われました。焼津市下小田の地蔵堂縁日はかつては盛んに花火を打ち上げたことから「花火地蔵」と呼ばれるほど有名でしたし、藤枝市瀬戸新屋の鏡池堂縁日は現在でも歌や踊りで大変賑やかに行われると聞きます。今は静かな坂本の地蔵堂にもかつてはこのように賑やかな夏祭があったのでしょう。
八兵衛碑のほとんどは大井川左岸の旧志太郡だった地域に集中しており、旧来は川中島八兵衛信仰は旧志太郡内あるいは志太平野内に特有の信仰とされていました[4]。ところが例外が存在し、そのうちの1例がこの島田市坂本で、もう1例は島田市船木[5]にあります。どちらも大井川右岸に位置する旧榛原郡初倉村に属した地区です。
現状ではこのような例外は上記2例しか見つかっておらず、信仰の中心地が志太郡だったという説は否定されるものではないでしょう。しかし、志太郡外への信仰の波及が現実に確認されたということは、ほかにもまだ見つかっていない「例外」が存在する可能性がありえるということでもあるのです。もしかしたら、もっと遠くの地域にも八兵衛さんを信じる人がいたかもしれません。
坂本の八兵衛碑が明治5年という早い時期に建立されているのも注目すべき点です。これは、島田市内に所在する建立時期が判明している八兵衛碑のうちでは、最古のものです[6]。建立時期が不明な碑も存在することから、坂本の八兵衛碑が島田市内最古と断定することはできません。ただ、坂本に八兵衛信仰が伝わった時期が、同市内のほかの地区と比べても遅くはなかったことは確実です。
参考までに、同市内では坂本に続いて伊久美・東光寺の碑が明治10年までに建立されており、これ以外の地区では明治30年代半ば以降の建碑になります。旧初倉村と地理的に近い旧六合村と旧大洲村(現藤枝市)では、大正時代の年号が確認できます。坂本と同じく旧初倉村に属した船木では、そもそも近年に至るまで建碑が行われておらず、以前は巻物が供養の対象とされていたそうなのですが、その巻物の作成時期はわかっていません[7]。
八兵衛信仰がどのように始まり広まったのかはまったく判明していないのですが、旧初倉村の例を見るとますますわからなくなります。ひょっとすると、交通の便の良い東海道周辺地域に先んじて、大井川対岸へと信仰が伝播していたのかもしれないのです。明治維新後には牧之原台地開拓のための往来があったので、そこに伝播経路があった可能性は考えられます。とはいえ、初期に開拓に入ったのは元士族や金谷宿の川越人足だったといい、これらの人々が八兵衛を知っていたかどうかは疑問に思われます。はたして初倉村に八兵衛信仰を伝えたのは何者だったのでしょうか。