銘文 |
右奥のカーブミラー付近が推定旧地 |
現在は延命地蔵堂墓地の片隅に安置されていますが、『大富村史』によると元は“下祢宜島の川の傍ら”に祀られていたとのことです。『焼津市史』などによると、旧地は延命地蔵堂の西沿いの道路を南下して最初に出合う交差点の脇だったようです。この交差点には蓋をされた太めの水路が流れていますが、これが『大富村史』にある川だったのでしょうか。『焼津市史』の発行が2007年なので、地蔵堂への移転は近年に行われたものと思われます。
祢宜島の延命地蔵堂 |
『焼津市誌』によると、祢宜島の延命地蔵堂がある墓地は、昔は子供の墓地とエナバだったといいます。エナバというのは胞衣場、すなわち胎盤などの後産を埋める場所のことです。昔は後産は地中に埋めて処理した例が多く、埋め方の良し悪しが子供の成長に影響すると考えられていました。
地蔵堂内には石造の地蔵立像と役行者の木像が祀られています。『焼津市史』によると、地蔵の台座には“享保七壬寅(1722年)”とあるが、ここに祀られた時期はそれ以前に遡ると伝えられているそうです。地蔵像には金箔や赤い塗料が残っていて元は美しく彩色されていたと推定されているのですが、堂の外からそれを確認するのは難しいです。役行者像にはわらじが供えられており、これは足の病に御利益があるとされるため、願掛けのお果たしに奉納されたものとのことです。