興源寺の紀伊國八郎兵衛

紀伊國八郎兵衛

紀伊國八郎兵衛

紀伊國八郎兵衛、銘

八兵衛碑の表と右側面の銘

紀伊國八郎兵衛、周辺

地蔵を納めた小堂の脇にある

庚申塔

「庚申塚」と刻む庚申塔

如意輪観音像

如意輪観音像

碑の内容
  • 表:紀伊國八郎兵衛
  • 右:明治十三年
      辰秋彼岸日
      講中
解説

興源寺の入り口近くの地蔵堂脇に、庚申塔(明治38年建立)・如意輪観音像とともに安置されています。興源寺があるあたりは旧大富村上小田でしたので、この八兵衛碑を建立した「講中」とは上小田の人々が結成したものでしょう。庚申塔にも「上小田」の文字が見えます。

電話帳などを見るに、三和付近は小長谷(こながや)姓が多いらしく、上記庚申塔の建立者も小長谷姓の方でした。小長谷といえばよその八兵衛碑には小長谷八兵衛と刻む碑もあるのですが、興源寺の碑には小長谷もなければ川中島もない、他では見たおぼえがない珍しい銘になっています。

三和付近で小長谷姓が多いのは、現在三和に含まれる旧大富村三郎兵衛新田の芝切り(村を開拓した人)が小長谷家だったからのようです[1]。いっぽう、八兵衛さんの小長谷はその読み方や意味がはっきりしていません。小長谷八兵衛というと一見すると苗字風ではあるものの、そうと断定できる証拠はないのです。

小長谷と刻まない碑はほかにもありますし、三和付近の小長谷家と八兵衛さんのあいだになにかつながりがあったという話も聞かないので、碑に小長谷の文字がないのは別に不思議な事ではないのですが、ちょっと気になりますよね。私は小長谷と刻んでしまうと後の人が先祖の墓と勘違いするかもしれないからあえて刻まなかったのかなーなどと想像しましたが、本当はどうだったのでしょうか。

脚注

  1. 焼津市史編さん委員会編『焼津市史』民俗編、2007年 pp.966-970