銘文 |
右から二番目が八兵衛碑 |
大龍寺は元は現在の五ケ南共同墓地【地図】にあったのですが、大正12年(1923年)ごろに火災で全焼した後、現在の場所に移転・再建されました 。この時、旧地にあった墓や碑などの一部が現在地に移されました。『焼津市史』では、八兵衛碑もこの時に旧地から運んだものと思われるとしています。
大龍寺の再建時期について。『焼津市史』では、大正11年生まれの方が祖父から聞いた話として、大正12年(1923年)1月20日に火災発生・全焼とあります。また、現・大龍寺本堂の鰐口に「昭和十七年一月吉日 本堂落慶記念」とあることから、再建は昭和17年(1942年)ごろとしています。いっぽう、『五ケ堀之内ふるさとのあゆみ』では、大正11年1月火災発生、大正12年に“区民の会合も考慮され”区内中央部に再建とあります。焼け跡に残された仏像や墓・石碑の移転が大正12年ごろ先に行われ、後の昭和17年ごろになってから本堂再建が実現したということでしょうか。
『焼津市史』には、五ケ堀之内では八兵衛さんを“鉄道で轢死した怨霊と共に供養”とあります。この鉄道で轢死云々というのは、現在では大龍寺境内で祀られているという踏切地蔵のことを指しているものと推測します。地蔵の供養は8月に行われることが多く、同じく8月であることが多い八兵衛さんの供養と同時に行っているということでしょうか。
踏切地蔵について詳しくは後述しますが、元は五ケ堀踏切の脇に安置されていて、鉄道事故死者を供養しつつ事故が起こらないよう祈願していたようです。「怨霊を供養」では意味合いが少し違うように思えます。この『焼津市史』の記述は、もしかしたら、『大富村史』で紹介されている「中村の線路脇で鉄道死者として念仏されている八兵衛さん」が念頭にあったのかも知れないなーなどと思っているのですが、あくまで推測です。
南無大慈大悲延命地蔵大菩薩 |
延命地蔵坐像 |
地蔵立像、後ろは馬頭観音 |
五ケ堀之内地内で青島焼津街道(旧・県道222号)と東海道本線が交差する地点に、五ケ堀踏切があります。青島焼津街道はかつては五ケ堀之内地内唯一の幹線道路で、午道・車途などとも呼ばれていました。この道筋にできた五ケ堀踏切は、見通しが悪く遮断機もなかったため、鉄道事故による死者が出ていました。昭和9年(1934年)には大型自動車と列車の衝突事故があり、死者2名・重傷者1名という被害が発生しました。
これを憂えた地元の須原さんという女性が、念仏仲間と協力して人々から浄財を募り、昭和10年(1935年)踏切のそばに地蔵を建立しました。以来事故はなくなり、踏切地蔵尊は人々の尊敬を大いに集めたといいます。また、地元から幾度も陳情した結果、昭和12年(1937年)には遮断機の設置が認可されました。
現在、踏切脇に地蔵はありません。『焼津市史』によると、踏切地蔵は大龍寺境内に移されたとのことです。現在、大龍寺境内には地蔵が複数あり、そのどれが踏切地蔵なのか特定できていません。寺入口にある延命地蔵か、八兵衛碑の左に観音らしき石仏をはさんで並んでいる地蔵立像の、どちらかだと思うのですが。
なお、念仏仲間とは、念仏講のような集まりのことと思われます。地区の祭事・仏事に際して近所の人が集まり念仏や御詠歌を唱和するもので、静岡県の一部地域(中部地方?)ではこの念仏を「おしょうや」とも呼びます。『焼津市誌』によると、おしょうやは焼津市内では隠居した女性たちがよく行うもので、地区で祀る地蔵の縁日や近所で不幸があった際に行われる宗教儀式的なものもありましたが、女性同士で集まりおしゃべりを楽しむ今でいえば女子会のような側面もあったそうです。
最終更新:2014年3月30日 ページ作成:2014年3月30日