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志太の石碑・石仏めぐり

内瀬戸・延命寺の庚申塔の八兵衛碑

延宝8年(1680年)建立の庚申塔が後に八兵衛碑を兼任するようになったのだそうです。

内瀬戸・延命寺の庚申塔の八兵衛碑

内瀬戸・延命寺の庚申塔の八兵衛碑

内瀬戸・延命寺の庚申塔の八兵衛碑

庚申塔の八兵衛碑

内瀬戸・延命寺の庚申塔の八兵衛碑

入口わきの地蔵堂内に祀られる

解説

碑の形状は、角柱の上に笠が乗っている笠付き庚申塔です。台石前面には「見ざる聞かざる言わざる」の三猿の浮き彫りがあります。角柱前面には文字が刻まれていますが、私には判読できませんでした。

私が確認したかぎりではこの碑は完全に庚申塔そのもので、そうと知らなければこれが八兵衛碑とはまず気が付かないでしょう。この庚申塔を八兵衛碑として紹介しているのは『青島の野仏』です。ただ、同書には、なぜこれが八兵衛碑なのかという説明はありません。

『青島の野仏』によれば延命寺の庚申塔が建立されたのは延宝年間、江戸時代前期のことです。いっぽう、他の八兵衛碑の情報から推測するに、八兵衛碑の建立が始まったのは早くても江戸時代後期のことです。延命寺の八兵衛碑は、元来はただ庚申塔として建立されたものでしょう。それに後から八兵衛が付け加えられたのではないかと私は考えています。

古くなった墓石や石仏を、石段や石垣の材料として再利用した例があります。もしかしたら延命寺の八兵衛碑も同様に古くなった庚申塔を再利用した例なのかなーと思ったのですが、それにしては八兵衛碑として改造しようとした痕跡がまったくないのは不思議です。

八兵衛信仰には統一ルールというものがほぼ存在しなかったようで、祀り方もところによって異なる部分があります。なかには碑を建てないというところもありました。なので、碑の形態に関しても様々なものが存在するのはさほど不思議なことではありません。とはいえ、元は庚申尊を祀っていたものに八兵衛さんが重ねられるまでの間にいったいどういう経緯があったのか、気になるところです。

参考文献

  • 藤枝市立青島南公民館編『平成14年度第12回南風まつり展示 青島の野仏』2003年