西の谷川の上流方向を望む |
宇峠の馬頭観音(右端3体) |
標柱に記された説明文と『さかもと今昔』によると、昭和37年ごろに土地改良が行われる以前のこの場所は、小高い峠状になった上を西の谷川が流れていて、「リヤカー、大八車の難所」だったとのこと。慶長9年(1604年)の検地の際には「うとうぎ」の地名が記録されていて、これには「山が平地に突き出ている」という意味もあるそうです。
西の谷川は、坂本神社の東側を流れる高草山の谷川です。現在は高草山の麓に下りてすぐ高草川に合流して東の石脇方面へと流れてますが、昔は坂本神社から宇峠を通って南東に向かい、石脇上や中里の田んぼに流れ込んでいました。
この西の谷川は天井川になっていて、高く盛り上がった土手が峠のようだったのが、宇峠という地名の由来と考えられています。また、西の谷川には宇峠の地点で橋が架っていて、土手を登ってここを渡るのに非常に苦労したというのが、リヤカーや大八車の難所ということのようです。
明治22年の道はだいたいこんな感じ(CC-BY-SA)
OpenStreetMapを利用して、国土地理院の2万正式図宇津谷峠と空中写真USA-M300-A-3I-4を参考に作成。
宇峠がリヤカーや大八車の難所だったということは、すなわち、そこを通るリヤカーや大八車が少なくはなかったことを示しています。いったいここにはどのような交通があったのか、宇峠に橋があった当時の道の様子を探ってみます。
現在、宇峠の旧地名標の前には交差点があります。ここから南北に伸びるのは坂本地区を縦貫する道路で、北は高草山麓で県道213号(岡部街道もしくは高草街道)と交差し、南は朝比奈川を高草橋で渡り八楠で県道81号(朝比奈街道)につながります。東西方向には、東益津地区を横断して、石脇上の東名高速日本坂PAと岡部町方面を結ぶ道路が走っています。どちらも比較的交通量が多い道です。
このような現在の道路が整備されたのは、昭和35年(1960年)から始まった土地改良事業の時です。それ以前の宇峠周辺は一面の水田地帯で、不ぞろいな形の田がひしめく中に小高い土手に囲まれた西の谷川が流れていました。地区を通る道路のほとんどは田に沿って屈曲する細道で、現在の自動車通行可能な道路が縦横無尽に走る状況と比べると交通は不便でした。ただ、宇峠には、土地改良前にも東西南北へ向かう道筋がすでにあったようです。
東西には、『高草山麓のむかし話』によれば、塩売道(ションバミチ)と呼ばれた、東益津地区東端の浜当目から西へ向かって東海道(国道1号)までをつなぐ道筋があったそうです。途中どこを通っていたのか特定できていないのですが、現在のサッポロビール静岡工場付近から宇峠を経由し、最終的には白髭神社(藤枝市横内)の南で東海道に出ました。浜当目の製塩業の人が塩を売るために通う道であり、東益津地区から藤枝の田中城へ向かう唯一の道でもあったそうで、明治時代以前はよく利用されたようです。
南北の道は、大まかな道筋は現在とほぼ同じです。宇峠から北へ進むと岡部街道を越えて高草山麓に突き当たり、東の石脇方面へと山沿いの道が続きます。坂本の古くからの集落はこの道沿いにありました。南へ向かうと朝比奈川ですが、渡河地点が現在とは違い、東名高速の橋の少し上流に坂本橋もしくは高麓橋という橋が架っていて、越後島の西境付近で旧朝比奈街道に出ました。旧朝比奈街道は、瑞応寺(焼津市越後島)や橘神社(藤枝市下当間)の南側を通っている道路がその跡です。
朝比奈川に架っていた高麓橋は、『東益津村々誌』によれば、明治14年(1881年)に坂本の人々によって架設されました。橋を渡った先の朝比奈街道は、西は東海道を経て藤枝に、東では焼津駅前に通じていました。この道は東益津地区と藤枝を結ぶ要路だったといいます。また、岡部街道が大正5年(1916年)に開通する以前は、坂本から岡当目の瀬戸川渡河地点(現在の入江橋)までを結ぶのは、荷車は通れない畦道でした。この頃には、東益津地区西部から焼津へ行くにも、朝比奈街道を通ったほうが便利だったのではないでしょうか。
坂本の住人にとっては、高麓橋にはもうひとつ重要な役割がありました。朝比奈川の南岸、東名高速の西側に、坂本の飛び地があります。ここは旧地名を原畑といい、土地改良後に宅地化される前には坂本の耕地だった場所で、大正時代の地図には茶畑の記号が書かれています。高草山麓にあった坂本集落からこの畑へ通うのに使ったのが、宇峠から南北に伸びる道でした。『ふるさと東益津誌』ではこの道のりを「田中の道」と称していて、かつて田園地帯だった坂本南部の様子をよく表しています。
かつての宇峠は、たしかに交通が盛んな場所だったようです。そのためか、『さかもと今昔』によれば、ここには土地改良前には馬頭観音が数体祀られていたそうです。『ふるさと東益津誌』に引用された明治13年(1880年)の坂本村の「農政図」によれば、当時の坂本は道路状況が悪く車両は通行不能で、牛馬による運輸が行なわれていたそうです。宇峠にあった馬頭観音は、こうした牛馬を供養し往来の無事を祈ったものだったのではないでしょうか。この馬頭観音は現在は林叟院門前の地蔵堂脇に祀られています。