志太の石碑・石仏めぐり

青島史蹟保存会「東海道追分」

東海道追分
東海道追分
東海道追分1
看板
東海道追分2
旧東海道側から
東海道追分3
竜太寺山沿い

碑データ

  • 碑の内容
    • 碑表:東海道追分
    • 碑裏:[なし]
    • 碑右:飯塚正二書
    • 碑左:平成六年十一月三日 青島史蹟保存会
    • 看板:(7) 東海道追分 [本文略] 平成十年五月青島史蹟保存会
  • 石碑建立時期:1994年(平成6年)11月3日
  • 説明看板設置時期:1998年(平成10年)5月
  • 建立者:青島史蹟保存会
  • 所在地:静岡県藤枝市下青島162-8堀江電気の南西側、県道222号沿い【地図
  • 最終確認日:2020年02月10日

メモ

青島町全図+東海道

上の地図には藤枝市下青島・瀬戸新屋・水上・南新屋・青木・前島付近が含まれています。この地域の北側には南アルプスから下りてきた山々の南端が丘陵として連なり、現在はその丘を削った上に駿河台・新南新屋をはじめとする団地が建ち並んでいます。

水上は丘陵に東西を挟まれた低地で、以前は西側の丘の麓に水が湧く場所が何箇所かありました。その最も大きなものが図中にも見られる水上池で、この池は古い昔は南新屋や瀬戸新屋にまで広がっていたという言い伝えがあります。現在では各所に残る調整池などにかつての池の名残が見られます。

瀬戸山の東、新旧東海道の追分

追分というのは道の分岐点のことです。青島史跡保存会が設置した説明看板によると、この場所は、江戸時代に整備された旧東海道と、それ以前に使われていた古東海道の分岐点です。これがこの付近の地名にもなっており、現在も下青島追分地区と呼ばれています。

青島地区の東海道については、青島史蹟保存会「古東海道蹟」を参照していただくとわかりやすいかもしれません。現在の藤枝市立青島小学校からマジオドライビングスクール付近にかけて、瀬戸山という丘が存在しました。その麓を通るのが江戸時代に整備された旧東海道。それ以前に利用された「古東海道」は、瀬戸山の上を通っていました。この瀬戸山の東の上り口に、青島史蹟保存会による古東海道蹟碑が建っています。

古東海道は西から瀬戸山を下りてきて、古東海道碑の前でいったんは旧東海道と合流するのですが、そのまま東へとは進まなかったようです。東海道追分碑があるのは古東海道碑から旧東海道を西へ少し戻った地点で、そこから南東へカーブしている道が古東海道の続きです。この道の北側には以前は龍太寺山という小さな丘がありました。この南麓を回って、青島高架橋北交差点付近で県道356号に突き当たって途切れる道が、古東海道跡とされています。

古東海道があったところに新たに旧東海道が整備され、旧道と新道の分岐点ができ、この場所は「追分」と呼ばれるようになりました。旧東海道が完成した後も古東海道は必要に応じて通行され、特に龍太寺山南麓を回る道は後に焼津や小川へ向かう道となり、昭和初期まで青島地区のメインストリートとして利用されました。このことを示す道標が「追分の小長谷八兵衛之碑」です。

ところで、瀬戸山の反対側、西の内瀬戸付近にも山上にのぼる古東海道と山麓を通る旧東海道との分岐点があったはずですが、こちらは追分とは呼ばれていません。これは、山上の道は不便で早くに廃れてしまったことを示しているのかもしれません。事実、昭和初期に編まれた『青島町誌』では、瀬戸山上の古東海道はすでに大半が消滅したとされています。一方、下青島では上述の通り龍太寺山南麓の道が後々まで利用され、名実ともに追分であり続けたわけです。

追分の東、上泉道

さて、追分を東へ通過し龍太寺山南麓を回った古東海道はその先、説明看板によると「前島境で初倉からの道と合して南新屋(五叉路)へ通っていた」とのことです。初倉とは、大井川右岸の島田市阪本・大柳付近のこと。南新屋の五叉路は、地元では青木の五叉路と呼ばれている県道381号青木交差点のことです。この初倉からの道は、現在の県道356号の前身、上泉道・上泉街道などと呼ばれていた道がそれにあたるものと思われます。

明治のころの上泉道は、青島地区南部を流れる栃山川のほとりから青島高架橋南たもとまでは、現在の県道356号とほぼ同じ場所を通っていました。その先は、高架橋にはのぼらず、現在では消滅した北東への道筋を進んで、青島地下道付近で東海道線を渡りました。鉄道北側ではゆるく蛇行しながら北へ進み、南新屋会館(東泉寺跡)西側で旧東海道に接続していたようです。

竜太寺山南麓をまわってきた古東海道は、現在のノジマ藤枝駅前店(旧西友藤枝店)の北あたりで県道222号に沿う道筋になり、そこから少し東へ進んだところで上泉道に接続していました。

水上・瀬戸新屋にあった出水地帯

地図上で旧東海道と比べてみると、古東海道はずいぶん遠回りで青島地区を通過していたことがわかります。これは、昔の水上・瀬戸新屋付近が出水の多い湿地や池が広がる土地だったためです。湿地が水田として開発されて縮小していき、江戸時代のころには街道を通せるほどになったのですが、それ以前は大迂回した方がはやいような土地だったようです。

この付近には、このページの初めの方で述べた水上池のほかに、鏡ヶ池や姥の鏡田(うすんばあさん)といった水の湧く場所がありました。このように水気の多い土地柄のため、時には出水に悩まされました。江戸時代に編まれた『駿河記』には水上池は大雨の時はあふれて一帯の田野を大池と化したとあり、『青島町誌』にも水上は「排水不良にして水損の虞れあり」と書かれています。

この地区に水神社や大井神社といった水に関わる神社があるのは、こうした出水被害を抑えたいという祈願のためでしょうか。また、瀬戸新屋の旧東海道沿いに建つ鏡池堂は、鏡ヶ池にゆかりのある寺です。

脚注

関連資料