静岡県道210号相俣岡部線わきに残る廃トンネルと、岡部と朝比奈をつなぐ峠「貝立坂」の話
岡部隧道、桂島側口 |
岡部隧道、岡部側口 |
県道210号旧道残存部 |
岡部隧道は、静岡県道210号相俣岡部線の、藤枝市岡部町桂島と岡部町岡部の間にある、小さな廃トンネルです。ここは旧東海道岡部宿から朝比奈川上流の山間部へと向かう道のりの入り口にあたり、現在は切通しで峠を越すこの区間を、平成15年(2003年)ごろまではこのトンネルを通って越していました。
岡部隧道の岡部側口は、現道から分岐する旧道が残っていて、トンネル直前まで行くことができます。桂島側口は、現県道の切通しの東側斜面に一見すると沢でもあるかのような雰囲気のくぼみがあり、その奥に隠れています。桂島側では現道と旧道の間にかなりの高低差があり、現道の路面はトンネルの天井に近い位置にあります。なお、両側とも現在は柵で完全に塞がれていて、トンネル内部に入ることはできません。
廃止されてからまだ10年少々しかたっていないにもかかわらず、坑門のコンクリートがひどく荒れています。笠石や帯石のような意匠が施されていた痕跡がかすかに残っていて、扁額らしき部分もあるものの、文字は見えませんでした。内部は外と比べると状態が良いようです。天井にずらっと並んでいるのは照明器具だと思うのですが、この短いトンネルには過剰ではないかと思うほどの数が設置されています。
「日本全国トンネルリスト」[1]によれば、岡部隧道は昭和8年(1933年)竣工、延長122m・幅員4m・有効高3.5m。目に付くところといえば坑口の丸みがふっくらとしてかわいいというくらいで、ごく普通の老朽化した廃トンネル……なのですが、じつはこの岡部隧道、明治時代の志太郡でたった2本だけつくられた道路トンネルのうちの1本の可能性が高いのです[2]。明治28年(1895年)に竣工したそのトンネルは、貝立隧道といいました。
県道210号の終点がある岡部町岡部は、江戸時代に東海道岡部宿がおかれた町です。藤枝市・静岡市境の宇津ノ谷峠から流れてくる岡部川沿いの南北に細長い谷の中にあり、町の両側を標高150mほどの丘陵が挟んでいます。県道210号を通って宿場西側の丘陵を越えると岡部町桂島、朝比奈川沿いの山間に広がる茶所朝比奈地区の入り口です。
この峠道は、江戸時代には貝立坂の名で知られていました。貝立というのは峠道の岡部側入り口にある山の名前で、現在はその山腹に貝立公園があります。江戸時代末の地誌『駿河志料』[3]に書かれた朝比奈郷への道のりは、岡部宿東口の岡部川に架かる土橋のたもとで東海道からわかれ、およそ5町(約545m)ほど行った貝立坂というところから桂島へと越えるというものです。岡部川の土橋とは、県道208号岡部橋の西側を通る旧東海道に架かっていた橋で、現在はここに岡部橋という県道橋と同名の橋があります。橋から先どこを通っていたのかは、宅地造成や県道工事の影響もあって、今ではよくわかりません。ただ、貝立坂というからには貝立山を越したには違いなく、峠の位置は現在の県道とそう変わらなかったのではないでしょうか。
この貝立坂に明治時代半ばに開削されたのが、貝立隧道です。『岡部町誌』[4]によると、明治22年(1889年)に岡部町有志[5]が岡部・朝比奈間の道路改修を計画。その一環として、隧道開削が明治27年(1894年)から県補助金を得て行なわれています。途中、明治28年(1895年)1月12日に死者6名負傷者3名を出す崩落事故が発生し、この影響で工期を延長しつつも、同年9月21日には開通式にこぎつけることができました。竣工した隧道は、延長73間(約132m)幅員2間(約3.63m)[6]、「廃線隧道【BLOG版】」[7]によると坑門は石積みでした。
貝立隧道は明治39年(1906年)に県道朝比奈街道に編入され、朝比奈川沿いに焼津駅から現岡部町宮島へと通じる道路の一部になりました[8]。この県道朝比奈街道は、昭和初期に複数の路線に分割されたようです。焼津駅から現藤枝市仮宿までの区間は昭和3年(1928年)に県道広幡焼津線と改称され[8]、貝立隧道前後の区間も同時期に県道岡部駅桂島線として再整備されています[9]。岡部駅というのは藤相鉄道駿河岡部駅のことで、現在市民ホールおかべがある場所に大正14年(1925年)から昭和11年(1936年)まで開業していました[10]。
この県道岡部駅桂島線整備の一環として隧道・橋梁改修工事が行われ、昭和8年(1933年)に竣工したのが岡部隧道です[9]。開通直後の写真によると、坑門はコンクリートながら石積み風の装飾が施され、扁額には「岡部隧道」の文字が右横書きで黒々と記されていました[11]。この岡部隧道は、既存の貝立隧道を改修してつくられたものと私は考えます。確かな記録は見つかっていませんが、地元の方が編纂した『岡部史談』[12]に貝立隧道が改装されたとの記述があり、地図上でのトンネルの位置にも変化がないように見えることから、そう判断しました。また、現地にも岡部隧道以外にトンネル跡らしきものは見あたりません。
県道岡部駅桂島線は昭和35年(1960年)に県道210号相俣岡部線になっています[13]。この道路に三度目の再整備の声があがったのは平成元年(1989年)ごろ、当時の志太郡岡部町内の狭小区間を解消すべく道路改良計画が開始され、切通し開削工事が始まったのは平成4年(1992年)でした[14]。完成にはなんと10年以上かかり、切通しが開通したのは平成15年(2003年)末ごろのことだったようです[15]。おそらく同時期に岡部隧道は廃止されたものとみられ、平成17年(2005年)撮影の空中写真(CCB20051X-C6-5)[16]には隧道の桂島側口が新道に遮断されて通行不可能になっている様子が見てとれます。
『岡部史談』[17]には、戦前の貝立隧道周辺が桜の名所だったことが書かれています。それによれば、隧道前には明治末期ごろに植えたという桜並木があり、花の時期になると静岡市内から花見客が芸者連れで訪れるなど、一時期は大変な賑わいだったそうです。この賑わいは昭和10年頃まで続き、桜トンネルとの通称も生まれましたが、桜並木は太平洋戦争中に薪供出のため伐採されてなくなってしまったということです。なお、同じ岡部町内では東海道宇津谷隧道の出入り口にも桜並木があったといい[6]、もしかしたらこの時代には隧道前に桜を植えるのが流行っていたのでしょうか。隧道自体がまだ珍しいものでもあり、物見の対象たり得たのかもしれません。
こうした賑わいがあった一方で、隧道自体は、実際に通行した人には薄暗い気味悪い場所と記憶されていたようです。たとえば、『浜当目の民俗』[18]に、焼津市浜当目の女性がお茶摘みの出稼ぎで「岡部町桂山」へ行く道中、真っ暗なトンネルを抜けなければならず、前を行く仲間の白い衣服を頼りに歩いたという話が収められています[19]。焼津市から岡部町のどこかへ向かうさいに通る可能性があるトンネルは、貝立隧道もしくは岡部隧道しかありません。ただ、この話には疑問点もあり、どちらのトンネルを通ったにせよ距離は120mほどしかなく、目印が必要になるほどの道のりとは考え難いです。とはいえ、朝比奈地区へ行く途中に暗いトンネルを通ったという思い出があったことは事実です。茶摘みの時期ともなると隧道前の桜がよく茂っていたでしょうから、暗いという印象がより強く残ったのかもしれません。
この悪印象は戦後にも引き継がれ、平成に入ってからも化けトンなどと呼んで心霊スポット扱いする人がいました。現在の坑門の荒れようは、トンネル現役時代からすでに見られたものだったのかもしれません。また、この県道自体が狭く通行しづらかったことも、トンネルの印象を悪くしたのではないでしょうか。平成の改修以前の県道210号は2車線分ぎりぎりあるかないかの細い山道で[20]、岡部隧道内は自動車のすれ違いは難しかったと聞きます。さらにトンネル両側はどちらとも急カーブになっていて、狭いうえに見通しもよくないという悪環境です。通るのに緊張を強いられる嫌な道ではあったでしょう。
現在、岡部隧道の岡部側口前に、小さな不動明王の石像が祀られています。銘は確認できず誰がいつ祀ったのか不明ですが、岡部隧道現役時代にはすでにここにあったようです[21]。古来、峠には神仏が祀られたものです。もしかしたらこの不動明王も岡部と朝比奈の間を境する峠を見守る仏だったのかもしれません。
貝立切通しの蛇篭壁と謎のベル |
桂島側口が隠れている道路わき |
旧道・新道分岐点 |
余談になりますが、私はトンネル現役時代の県道210号を通ったことがなく、岡部隧道の存在も知りませんでした。ですので、切通し開通後にはじめて通った貝立坂で、道路わきに謎の大穴が開いているのに気付き、えらいりっぱな水抜き穴を掘ったなーなどと、とんでもない勘違いをしました。廃トンネルは現道から見ればかなり低い位置にあり、そのため水路トンネルだと誤認したのです。
もっとも、現在の岡部隧道は、なんの用途もなくただ無為に口を開けているというわけでもなさそうです。不要のものであれば、現道の盛土をしたついでに埋めてしまいそうなもので、残しておくだけの理由はなにかあるのでしょう。その理由が、現道から排出される雨水などの受け入れ先という可能性は、まぁ考えられなくもなさそうです。
それはともかくとして、先述のとおり、切通しが開通したのは平成15年(2003年)末ごろです。同年の岡部町議会議事録を読むと、貝立開削工事が幾度も話題にのぼっており、10年以上の歳月をかけた工事の完成に大いに注目が集まっていたことがうかがえます。ここが開通すれば岡部町内の二大観光地である岡部宿と玉露の里が直接結ばれるわけで、交通上の利便性向上に加え、経済活性化などの期待も高かったのでしょう。
議事録からは、貝立の開削工事中、地すべり対策に難渋したことも読み取れます。ここでいう地すべりとは、斜面が地下水などの影響で滑り落ちてくる現象を指します。がけ崩れのようにある日突然斜面が崩壊するのではなく、斜面を構成する土塊がゆっくりじわじわと移動し続けるのが特徴です。この対策としては、擁壁やアンカーで斜面の移動を抑止するほか、斜面に流入する地下水を減らすのも有効な手段です[22]。
貝立では地下水対策がもっとも重視され、水抜きのための工事が盛んに行われたそうです[23]。現在の貝立切通しでは、斜面を覆う蛇篭の壁が目をひきますが、この壁から伸びるパイプは排水のためのものです。おそらく横ボーリング工というもので、斜面深くまで横穴が通されて、地下水を排出しているはずです。ところで、このパイプのそばに謎のアヒルちゃんベルが設置されていたのですが、これはいったいなんでしょう。斜面に異変が生じたら鳴り響いたりするのでしょうか。
地滑りが発生しているということは、その地盤は強固ではないということです。明治時代の貝立隧道開削工事中の崩落事故にも、地すべりを起こしやすい地質が関係していたのかもしれません。あるいは、岡部隧道の坑門の荒れようにもなにか影響しているのでしょうか。いずれにせよ、距離・高さともさほどのものでもないこの貝立の峠ですが、そこに道路を通すのはそう簡単なことではなかったようです。