藤枝駅を誘致し地域に発展をもたらした功労者の銅像
青地雄太郎像 |
銘板 |
青地雄太郎は、志太郡前島村(現・藤枝市前島)出身の政治家です。若くして志太郡青島村初代村長となり、村政に心血を注ぎ、地域の発展に大きく寄与しました。
青地雄太郎像が建っている藤枝駅は、村長になる以前の青地雄太郎が誘致活動を行って設置されたものです。藤枝駅の開業をきっかけに、青島地区は大きく発展していきます。藤枝駅は青地雄太郎が残した功績の一つともいえる場所なのです。
『藤枝駅と青島』によると、この銅像は藤枝市長や旧青島地区自治会などの人々が発起人となり建立したもので、除幕式には青地家親族の方が臨席されたとのことです。
藤枝駅ができる以前の青島地区は、東海道と田沼街道沿いにのみ集落が発達し、後は広大な田園の中に数戸単位の小集落が点在する散村が見られるだけでした。青地雄太郎の出生地である前島も、田沼街道沿いに集落があるだけで、後に駅となる場所は一面の田園地帯だったといいます。
明治19年(1886年)、東京・京都間をつなぐ鉄道が東海道を経由することに決定します。静岡県内にも鉄道が開通することになったのですが、それが実際にどこを通るかがなかなか決まりませんでした。『藤枝駅と青島』によると、明治20年(1887年)5月には藤枝宿を通るものとして土地の買収手続きまで済んでいたのに、6月になって突然取消しの通達が出されたなどということもあったそうです。
こうした状況にあった明治19年(1886年)7月、青地雄太郎は東京専門学校を卒業し、前島村に帰郷しました。そして鉄道敷設計画を知るや、その誘致に奔走します。父・半三郎は前島村外八ヶ村組合戸長を勤めており、その助力を受け地元の理解を得るべく方々を説得して回ったほか、青地家所有の土地を停車場敷地として寄付するなど、その努力は並々ならぬものがあったといいます。
明治22年(1889年)4月16日、静岡・浜松間に鉄道が開通、前島に設置された藤枝停車場が開業します。停車場開業後の青島村の発展は目覚しく、駅前に商工業者が集まるようになり、停車場と各地を結ぶ道路も整備され、田園地帯だった前島は繁華な市街地へと変貌しました。青島村は周辺地域から人や物が集まる交通の中心地になったのです。
同年4月1日、前島村など11村を合わせて志太郡青島村が成立しました。その初代村長に青地雄太郎が当選したのは6月13日のことです。その働きぶりについて『青島町誌』では、“動もすれば互に相乖離せむとする旧十一ヶ村を統御して能く融和協調せしめ土木に勧業に教育に衛生に其他百般の村務に尽瘁せるの労は能く筆紙の尽すところにあらず”と述べています。
『藤枝駅と青島』では、藤枝駅の誘致が成功していなかったら、青島地区は現在とは大きく違った姿になっていただろうと述べられています。実際のところ、藤枝駅がなければ青島地区が交通の中心地になることはなく、市街地の形成や道路の整備はずっと立ち遅れていたでしょう。青地雄太郎は、青島地区に一大転換点をもたらし、現在へと至る町の基礎を築き上げた人物といえます。