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志太の石碑・石仏めぐり

下青島・追分の小長谷八兵衛之碑

浜街道と小川道の分岐点に建つ道標を兼ねた八兵衛碑

小長谷八兵衛之碑

小長谷八兵衛之碑(右)

小長谷八兵衛之碑、銘文

小長谷八兵衛之碑、周辺

左が浜街道、右が小川道

碑の内容

碑表
右至小川道
紀伊国川中島
小長谷八兵衛之碑
左浜街道

解説

道の分岐点に、道標を兼ねた八兵衛碑と庚申塔と石仏が並んで建っています。石仏は『青島の野仏』によると馬頭観音とのこと。庚申塔は大正9年(1920年)建立、「追分両講中安全」の文字が彫られています。

八兵衛碑は、地蔵などの舟形光背を思わせる形状の石に、黒い塗料で銘が書かれています。どうやら元は現在とは異なる銘が彫ってあったらしく、「小長谷」と書いてある後ろにうっすらと「中島」と刻んだ線が見えました。

『山西の特殊信仰』によれば、同書が編まれた昭和36年ごろには、この追分の八兵衛碑は銘が読めない状態だったそうです。また、平成15年に発行された『青島の野仏』に掲載されたこの八兵衛碑の写真には、銘が見えません。現在の銘は、塗料の状態からしても、かなり最近に書かれたものなのではないかと推測されます。

なお、『山西の特殊信仰』によれば、追分の八兵衛碑は明治17年(1884年)の建立だそうです。当時は8月17日に供養祭が行われていたとのこと。近年では16日の夕方に地区の女性が御詠歌を唱えていたという情報がありますが、現在でも続いているかどうかは不明です。

浜街道と小川道

この八兵衛碑がある地区を「追分」といいます。追分とは道の分岐点のことです。

この追分地区内では、江戸時代の主要街道である東海道が、現在の静岡県道222号とほぼ同じ場所を通っていました。この東海道から、浜街道という焼津湊へと向かう道が分岐していました。このために、この地区は追分と称されるようになったのです。

浜街道と東海道の追分は、県道222号沿い堀江電気の南西角にありました【地図】。追分の八兵衛碑は東海道から分岐した浜街道沿いに安置されており、碑の前にはもう一つの追分があります。ここで浜街道から分岐するのは、現在の焼津市小川方面へと向かっていた道で、小川道(こがわみち)と呼ばれていました。碑に記された「右至小川道、左浜街道」とは、このことを示しているわけです。

碑に向かって右手にのびる小川道は、現在の藤枝市高柳や焼津市豊田地区を通って、最終的には小川港付近に至る道だったといいます。現在では古道跡はほとんど消滅し、八兵衛碑前から県道356号青島高架橋手前までの部分しか辿れません。『藤枝駅と青島』によると、小川道は明治22年(1889年)に東海道鉄道藤枝駅が開業した後は交通が著しく減少し、衰退してしまったということです。

浜街道は、焼津道・城之腰道などとも呼ばれ、現在の焼津市城之腰付近に達していました。『青島町誌』には、この道が焼津湊から船便で送られる年貢米の運搬に利用されていたことが書かれています。現在は高架橋に突き当たってしまうのは小川道と同様ですが、この道は大正末から昭和初期にかけて改修され、新線が建設されています。そうして昭和6年(1931年)に完成したのが県道島田焼津線、後の県道222号です。

関連項目
「追分」について詳しく:青島史蹟保存会の碑「東海道追分」
浜街道が改修されて生まれた県道島田焼津線:府県道島田焼津線開通之碑

余談

追分の八兵衛碑が建立されたのは明治17年、いまだ鉄道は開通せず小川道も衰退する前のことです。碑銘が当初から現在と同じものであったのなら、この八兵衛碑は道標を兼ねて建立されたということになります。八兵衛碑を道の分岐点に道案内とともに安置するということには、どのような意味が考えられるでしょうか。ひょっとしたら、地蔵や馬頭観音のごとく、道や通行人を守護する役割もあったのかもしれないとも想像されます。

しかし、前述のとおり、この銘は近年になって書き直されたものです。元の銘には道標部分は存在しなかったかもしれません。元の銘の痕跡がかすかに見えているのは確かなので、なんとか読み取れないかと思うのですが、なにか工夫をしないと難しそうです。

ところで、各地の八兵衛碑を一覧にして掲載している資料はいくつかありますが、この追分の八兵衛碑はそのほとんどに掲載されていません。私が見つけた資料の中では、『山西の特殊信仰』と『青島の野仏』のみが取り上げています。推測するに、他の資料の調査時には銘が判読できず、これが八兵衛碑とは判明しなかったのでしょう。

もっとも、地元追分では八兵衛の供養が続けられており、当然ながら追分の人はこの碑が八兵衛を祀ったものだと知っていました。この八兵衛碑を再発見した『青島の野仏』は、地元青島地区の公民館が編纂した資料です。地区内に点在する路傍の小さな地蔵から寺院跡に残された石仏群まで、一つ一つ丹念に調査され、それにまつわるいわれや思い出などが記録されています。他の地区では、これほど詳細な調査記録は見つかっていません。

なかなか難しいことではあるのでしょうが、志太地区全域で同様の調査を行なえないものかと思います。そうしたら、もしかしたら未発見の八兵衛碑や資料が新たに見つかるかもしれませんし、いまだ知られていない八兵衛の伝説なども聞かれるかもしれません。私としては今後も個人的な調査を積み重ねていくつもりではありますが、できればもっと大規模な調査が行われてほしいところではあります。

参考文献

  • 大房暁『山西の特殊信仰(西駿曹洞宗史)』久遠山成道寺、1961年、p.25
  • 静岡県志太郡青島町編『青島町誌』1930年、p.430(国立国会図書館デジタルコレクション
  • 藤枝市立青島南公民館編『平成11年度第10回青島南風まつり 藤枝駅と青島』2000年
  • 藤枝市立青島南公民館編『平成14年度第12回南風まつり展示 青島の野仏』2003年、p.13