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志太の石碑・石仏めぐり

兵太夫南の西國川中嶋八兵エ様

木屋川沿いで祀られる幕末建立の八兵衛碑

西國川中嶋八兵エ様

西國川中嶋八兵エ様

西國川中嶋八兵エ様、八兵衛碑

八兵衛碑と棟札

西國川中嶋八兵エ様、馬頭観音

馬頭観音

碑の内容

安政六未年
西國川中嶋八兵エ様
九月吉日
講中[安全?]

解説

木屋川沿いの小堂に祀られた、安政6年(1859年)という江戸時代末期の年号が刻まれた八兵衛碑です。藤枝市高岡の栃山川沿いにも、これとまったく同じ銘を刻んだ八兵衛碑があります(兵太夫上の西國川中嶋八兵エ様)。年号が確認できる八兵衛碑のうちでは、この二つが最古の八兵衛碑になります。

なお、碑左側面の文字は「講中」まではしっかり見えましたが、それ以下はやや自信がありません。『高洲史跡めぐり』では「講中信心」とされています。なお、同書によると、この八兵衛碑は兵太夫南地区の曽根家が世話をしていたもので、現在は仲間で供養しているとのことです。

八兵衛碑の隣に、緑色の石で彫られた石仏が安置されています。堂内に掲げられた棟札によると、こちらは馬頭観音のようです。棟札には天之御中命・手置帆負命・彦狭知命の神名が書かれており、これらはお堂の上棟式のさいに祀ったもののようです。

『高洲史跡めぐり』によると、この八兵衛碑は、土地改良前には現在地より北200mほどのところにあったそうです。『ふるさと高柳』によると、当時の高洲村(現在の藤枝市高洲地区)で土地改良が始まったのは昭和28年(1953年)のことでした。同時期に、木屋川でも流れをまっすぐに改修する工事が行なわれています。改修前の木屋川は、この八兵衛碑の近くでは、現在より100mほど北よりの場所を通っていました。『高洲史跡めぐり』には八兵衛碑の旧地は木屋川沿いとは書かれていないのですが、そう離れていない場所だったことは間違いなさそうです。

空中写真MCB627-C7-27

新旧木屋川と八兵衛碑所在地

国土地理院空中写真MCB627-C7-27を利用して作成

なお、兵太夫というのは、旧高洲村時代の大字の一つで、現在の藤枝市兵太夫・高洲・泉町・高岡付近がその範囲に含まれます。現在でも地区名として兵太夫南・兵太夫上などといった名前が残っているようです。

参考文献

  • 杉本春雄『ふるさと高柳』2009年、pp.175-177
  • 谷澤靖策『高洲史跡めぐり 谷澤靖策スケッチ集』2006年、No.50