- 建立時期:1859年(安政6年)9月
- 建立者:不明
- 所在地:静岡県藤枝市高岡4丁目14-27の西方の栃山川堤防沿い、藤枝特別支援学校の対岸【地図】
- 最終確認日:2015年11月21日
碑の内容
- 表
- 安政六年
西國川中嶋八兵エ様
[未?] 九月[吉?]日
解説
栃山川沿いの小さな広場に建つ小堂の中に、庚申塔とともに祀られています。堂のそばには、「川中島八兵衛」と記した標柱と、八兵衛についての説明が記された看板がそえられています。
庚申塔は丸い石に「庚申塔」と刻まれているのみで、年号などは見えませんでした。堂のわきの標柱は昭和61年(1986年)8月16日に建てたものである旨が裏面に書かれています。例祭日が8月16日だとも書かれており、例祭にさいして建立されたようです。
八兵衛碑は、上部に小さな欠けがあり、その部分にもなにか字があったようなのですが、読み取れませんでした。縦棒1本に横棒が2本交差しているのが見え、おそらく安政6年(1859年)の干支の「己未」あるいは「未」が刻まれていたのではないかと推測します。
この八兵衛碑が安置されている高岡は、旧高洲村時代には大字兵太夫に含まれた土地で、現在でも兵太夫上という地区名が残っています。この旧大字兵太夫には、安政6年の年号を刻んだ八兵衛碑がもう1基あります(兵太夫南の西國川中嶋八兵エ様)。この二つの碑は銘文がほとんど同じで、もしかしたら碑の作者や作られた機会なども同じだったのかもしれません。ただ、碑の形状や使われている石材は異なっているように見えます。
兵太夫の八兵衛碑に刻まれた安政6年(1859年)という年号は、年号が確認できる八兵衛碑の中では最古のものです。また、現状では風化のため確認できないのですが、高岡からほど近い藤枝市泉町に祀られる八兵衛碑(栃山川・大弥橋東の八兵衛碑)には、安政よりさらに古い嘉永7年(1854年)の年号が刻まれていたといいます[1]。すでに失われた碑や年号が未記載の碑にもっと古いものが存在する可能性はあり、これらが最初期に祀られた八兵衛碑だということはできません。しかし、ごく近い範囲内に特に古い碑が三つも集中して残っているというのは、それだけでも興味深いことです。
新旧の説明看板
お堂の脇に、八兵衛についての説明を記した看板が建っています。以前は文字が剥がれ落ちてしまっていて読めなかったのですが、最近新しく「川中島の八兵衛さん」と題されたものが設置しなおされました。
設置者・設置時期は新旧とも不明です。旧看板は、『高洲史跡めぐり』に掲載された2005年のこの場所のスケッチにすでに建っているのが見られます[2]。私が2014年4月に訪れたさいにはまだ古い看板がありました。その後、2015年3月には新看板に変わっていたことが、ブログ『八兵衛さんを探して - はぐれ遍路のひとりごと』に確認できます。推測ですが、新看板は2014年8月の例祭のときに設置されたのではないでしょうか。
なお、旧看板の説明文は新看板とは少し違いがあったようで、「言い伝え」「高野山」など新看板には使われていない単語が見られました。「高野山」というのは、前掲『高洲史跡めぐり』に八兵衛が高野山などで修行したという記述があるので、そのことを説明した部分ではないかと考えます。また、『ankome通信 米売る創る食べるコト。 - 5月5日号 栃山川沿いを田圃へ』で言及されている「川中島八兵衛縁起」が旧看板のことと推測され、ここからだいたいの内容を知ることができます。
新看板に書かれた八兵衛についての説明は、『大井川町史』下巻に掲載された八兵衛の項[3]の内容に沿ったものです。つまり、これはあくまでも書籍を参考に書かれた文章であって、高岡の人々が八兵衛をこのような人物と伝えていたというわけではありません。前掲『はぐれ遍路のひとりごと』の記事によれば、近所の方は看板に書かれてあること以外は知らないとおっしゃっていたそうで、よそと同じようにここでも八兵衛の由来はわからなくなっているようです。
高岡もそこに含まれる藤枝市高洲地区には、「高洲地区郷土の歴史愛好会」という郷土史を研究し顕彰する団体がありました。同会に関係して発行された書籍に、『ふるさと高柳』や『高洲史跡めぐり』などがあります。『ふるさと高柳』によると、同会は平成6年(1994年)に結成され、郷土史家の山下二郎を講師として勉強会を催したとのこと[4]。この講師の山下二郎は、『大井川町史』下巻の執筆者です。
高洲地区の住人に『大井川町史』の内容を広めた存在があったとしたら、それは高洲地区郷土の歴史愛好会だったと推測されます。おそらく高岡の説明看板も、同会の資料をもとに書かれたか、あるいは筆者が同会に所属していた方だったのかもしれません。また、旧看板の説明文にも『大井川町史』の影響が見られることから、その作成時期は早くても『大井川町史』が発行された平成4年(1992年)以降、おそらくは同会が結成した平成6年よりも後に作成されたのではないかと推測します。
なお、同会に関連して、島田市落合の八兵衛碑にそえられた説明看板には、「高洲地区郷土の歴史愛好会『川中島八兵衛の研究』」を参考にしたと書かれています。図書館などに納められていないかと探しているのですが、今のところ見つかっていません。どんな内容なのか気になります……。
なぞのお札、および土地占用許可について
直接八兵衛さんにかかわるものではないようなのですが、2014年4月には、お堂の中にお札が貼ってありました。庚申塔のほうの関係のものと思い込んでいたのですが、改めてよく見たところ、どうも違ったかもしれません。とりあえず、お札の右端に書かれた「若人欲了知三世一切佛」うんぬんという文言は、華厳経の「唯心偈」という施餓鬼会などで詠まれる偈文だということはわかりました[5][6]。2015年11月にはお札が撤去されており、再確認できませんでした。きちんと記録をとっていなかったことが悔やまれます。これがなんなのか、ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えください →【メールフォーム】
なお、ことのついでにメモっておくと、お堂に下げられた鈴緒に、「日光山」と墨書きされた木札が付いています。左甚五郎の眠り猫らしきものも見え、以前は札の下に鈴が二つ付いていました。日光東照宮のお守りと推測されます。ご町内の方が参拝土産を奉納されたのでしょうか。
あと、広場のすみに土地占用許可標識が建ってまして、占用目的として「『川中島八兵衛さん』の供養祭等に使用する広場として」と明記されているところも見どころかなーと思いました。堤防や河川敷になにかを設置する場合には、河川を管理する市や土木事務所から許可を得る必要があります。といっても堤防上に安置された石仏のほとんどはとくに許可をとったりはしていないわけですが、昔からあるものについては黙認状態のようです。堤防の機能を損なうようなものでなければ見逃してもらえることもあるということでしょうか。
脚注
- 長谷川一孝「川中嶋八兵衛」『民俗大井川』第1号、大井川民俗の会、1973年、pp.37-39
- 谷澤靖策『高洲史跡めぐり 谷澤靖策スケッチ集』2006年、No.38
- 大井川町史編纂委員会編『大井川町史』下巻、1992年、pp.807-819
- 杉本春雄『ふるさと高柳』2009年、pp.164-165
- 華嚴無盡海 > 華厳教海 > 唯心偈の訓読と現代語訳
- 一般社団法人光明会 > 関東支部だより(平成20年7月)
- 最終更新:2015年11月28日 公開:2015年11月28日