志太の石碑・石仏めぐり

栃山川・大弥橋東の八兵衛碑

銘がまったく読めない八兵衛碑、もしかしたら最古の八兵衛碑かもしれません。

大弥橋東の八兵衛碑

大弥橋東の八兵衛碑

大弥橋東の八兵衛碑、銘

八兵衛碑の表面

大弥橋東の八兵衛碑、2015年11月のようす

角塔婆の表と裏

大弥橋東の八兵衛碑、2014年4月のようす

2014年4月のようす

大弥橋東の八兵衛碑、周辺

奥が大弥橋

碑の内容

八兵衛碑
銘が読み取れなかった。
八兵衛碑背後の角塔婆
表:為川中島八兵衛霊位菩提供養之塔 裏:維時平成二十六年八月吉日 泉町有志之建

解説

『大井川町史』に「藤枝市の栃山川大弥橋東堤防上に八兵衛碑がある」との記載があって、その情報をもとに現地を探索して発見したのがこちらの2基の石碑です。左の碑は万延元年(1860年)九月と銘のある庚申塔。右の碑は風化が進んでおり銘は読み取れず、もとは櫛形墓石のような形をしていたらしいことだけわかりました。

石碑を見ただけでは、これが川中島八兵衛を祀ったものかどうかはわかりませんでした。しかし、大弥橋の東側で見つけられた石碑はこの2基だけです。また、島田市博物館分館「大井川流域の信仰川中島八兵衛展」(2014年)で展示されていた写真から、場所はここで間違いないと判断できました。以上の2点から、この銘が読めない石碑が八兵衛碑であるらしいと推測したわけです。

石碑の背後には角塔婆が1本ずつ建てられています。2014年4月に訪れたときには風化のため文字が不鮮明だったのですが、2015年11月に再訪したところ新しいものが設置されていました。新しい塔婆は両方とも平成26年(2014年)8月に泉町有志が建立したとのこと。推定八兵衛碑の背後にあるものは「為川中島八兵衛霊位菩提供養之塔」と書かれており、これは八兵衛碑で間違いないと確認できました。なお、以前の塔婆には「[為?]紀伊[国?]川中島八兵[衛?]」と見えましたので、新しくしたさいに文面が少し変更されたようです。

現存最古の八兵衛碑?

『民俗大井川』に、旧大洲村弥左エ門川原の栃山川沿いに「西国川中嶋八兵衛、嘉□七年丑七月□日」と判読できる八兵衛碑があったことが記録されています。「嘉□七年」が嘉永7年(1854年)であれば、これは年代が判明している碑のうちでは最古のものということになります。この弥左衛門川原の八兵衛碑とは、立地条件や碑の写真から判断するに、大弥橋東の八兵衛碑のことのようなのです。

江戸時代の年号が刻まれている碑は、弥左衛門川原の碑を含めて4基発見されています。そのうちの2基、藤枝市高岡の兵太夫上の碑と高洲の兵太夫南の碑には、安政6年(1859年)という弥左衛門川原の碑に次ぐ古い年号が刻まれています。この二つの安政6年の碑と大弥橋東の碑は、半径600mの範囲内におさまる非常に近い場所で祀られています。現存する江戸時代の碑のほとんどが、この地域で祀られているというわけです。

『民俗大井川』では、このことを根拠に、八兵衛信仰発生の地はこの付近だったのではないかと論じています。八兵衛碑の中には年代が判明していないものも多数あり、現存するものだけを根拠にこの論の正否を判断するのは難しいものがありますが、注目すべき指摘であることは確かです。

なお、江戸時代の碑の残りの1基は、藤枝市前島2丁目の青島第一自治会館にあります。ここも先にあげた三つの碑からそれほど離れておらず、一番離れている兵太夫南の碑からでも2kmほどです。また、現物は残っていませんが、焼津市石津浜では、文久年間(1861年~1864年)に最初の八兵衛碑を建立したと言い伝えられています。

関連項目

参考文献