志太の石碑・石仏めぐり

前島・弘法堂の川中嶋小長谷八兵エ衛

「八兵エ衛」はなんと読めばいいのか?養雲寺跡の弘法堂で祀られる八兵衛さん

川中嶋小長谷八兵エ衛

前島・弘法堂の川中嶋小長谷八兵エ衛

川中嶋小長谷八兵エ衛、八兵衛碑と庚申塔

左が八兵衛碑、右は庚申塚碑

川中嶋小長谷八兵エ衛、銘文

銘文

川中嶋小長谷八兵エ衛、周辺

周辺の様子

碑の内容

碑表
紀伊國
川中嶋小長谷八兵エ衛

解説

藤枝駅南のBiVi藤枝の裏にある堂の西脇に、明治33年(1900年)に前島中組講中が建立した庚申塚碑と並んで建っています。『青島の野仏』によると、八兵衛碑の供養日は8月16日とのこと。

少し自信がないのですが、銘が「八兵衛」ではなく「八兵エ衛」と読めました。もしくは「兵の下にエ」で一文字のようにも見えます。『青島の野仏』には、銘は「紀伊國川中島小長谷八兵衛」と記載されていました。

あまりにも自信がないので再確認したところ、「八兵エ衛」で間違いありませんでした。今のところ「兵の下にエ」で一文字という漢字は見つけられていないので、「兵」と「エ」は個別の文字だろうと思われます。

少し気になる点として、「八兵エ」の文字は、他の文字と比べると若干小さめに書かれています。また、「衛」の字が碑と台座を接着するために施されたコンクリートに半分隠されてしまっています。もしかしてこの「衛」を補うために「八兵エ」と彫り直したのかなーと想像したのですが、彫り直したような跡(表面が凹んでるとか荒れてるとか)は見られません。しかし、ともかく、読みはフツウに「はちべえ」さんでよさそうです。

花王山養雲寺の弘法堂

この付近には以前、花王山養雲寺という寺がありました。現在では本寺である宗乗寺(藤枝市小石川町)に吸収合併され、その名は残っていません。八兵衛碑が安置されている堂は、この養雲寺にあった弘法堂です。

『宗乗寺五百年史』によると、この弘法堂の始まりは、文化5年(1808年)に前島村の増田平七が高野山に詣で、往復2ヶ月をかけて弘法大師像を持ち帰ったことによります。当初は増田家西側の弘法田というところで祀っていましたが、文化12年(1815年)8月に増田家から養雲寺へ寄進されました。以来、地区民に「こうぼうさん」と慕われ、毎年4月8月の20日に法要が営まれているそうです。

養雲寺が廃止された時期は確認していないのですが、おそらく昭和58年(1983年)から平成14年(2002年)にかけて行われた藤枝駅南地区区画整理事業の時と推測されます。この区画整理のために駅南の街並みは大きく変貌し、弘法堂も元あった位置から少し移動しています。元の養雲寺の位置は初代青島村長・青地雄太郎の生家(「青地雄太郎出生地」参照)の東隣に当たり、青地家の墓所も元は養雲寺にありました。

養雲寺はなくなってしまったものの、弘法堂は本寺に移転せずこの地に残されました。これは、そもそも祀り始めたのがこの地の人々だったからでしょうか。私の少し怪しい記憶によれば、養雲寺があった辺りの区画整理が本格的に進められたのは平成に入ってからだとおぼえています。今では現代的な街並みが一帯に続いていますが、昭和末期にはまだ広い田畑や大きな農家があり、古い農村の面影が残っていました。

参考文献

  • 藤枝市立青島南公民館編『平成14年度第12回南風まつり展示 青島の野仏』2003年
  • 伊藤正之『宗乗寺五百年史』1977年
  • 大雄山宗乗寺