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池谷街道 1 焼津地区(焼津港内港~小川新町)

目次: はじめに ・ 1 焼津地区(焼津港内港~小川新町)・ 2 小川地区(会下之島~石津)
静浜街道(池谷街道)路線図
焼津港内港
焼津港内港から眺める当目峠と富士山

当目峠からのぞく富士山

焼津港内港と静岡・焼津市境の山々

焼津港内港と市境の山々

静岡県道31号との交差点

県道31号との交差点

今回訪問する区間では北部にあたる焼津地区からスタートします。焼津地区の池谷街道の北端は現在の焼津市中港にあったのですが、この付近は戦後すぐに行われた焼津港内港(旧港)・外港の建設時に陸を大きく掘り込んだ関係で、今となってはどこらへんが池谷街道だったのか全くわかりません。

そういうわけで、池谷街道が焼津港に突き当たる地点に向かいます。焼津市本町の北の端、以前は下田楼焼津ホテルだった汀家の西側を通る道路がそれです。

池谷街道が完成した当時は現在のような深く掘り込んだ港は存在せず、ここには黒石川と小石川の河口がありました。今船溜まりになっている場所はまだ陸地で、海側にあった広い砂浜が船揚場や魚市場として利用されました。昭和初期までに測量された地図を見ると、池谷街道はこの先で小石川を渡って、東益津地区との境に流れる瀬戸川畔までまっすぐに通っていたようです。 *1

内港から北を眺めると、港の向こうに焼津・静岡市境に連なる山々が見えます。上にあげた写真でいうと、左に見える山頂に鉄塔が建つ山が高草山、海側の端にある小さな山が虚空蔵山(当目山とも)といいます。池谷街道の正面には虚空蔵山とその左側の山の間に建物(ホテル松風閣)があるのが見え、この建物付近を当目峠といいます。この当目峠こそが、静岡市・焼津市境に約4kmにわたって続く断崖絶壁の大崩海岸への入口でした(「静浜街道・大崩上り口の道標」参照)。

なお、ここからは運が良いと当目峠の向こうに富士山の頭が見えることがあります。しかし昔はここにもう一つ山があったはずなので、明治時代には見えなかったかもしれません。

*1:焼津港内港の完成は昭和26年(1951年)のことでした。そのため、終戦直後に撮影された空中写真『USA-M85A-6-91』には本格的な築港が始まる前の焼津港が写されており、往時の風景をしのぶことができます。また、『土木学会図書館|戦前絵葉書 8.港湾』(「焼津漁港修築工事」でページ内検索)で焼津港建設中の写真を見ることができます。

旧・新屋、焼津市役所付近
焼津港内港から焼津市役所方面の眺め

内港から南へ延びる道

焼津市役所の東側

焼津市役所の東側

榊橋

榊橋

さて、市境の山々を背に池谷街道を小川地区へ向かって歩き始めます。現在この付近は焼津市本町となっていますが、以前は海側にある新屋の町内に含まれていました。新屋には古くから港があったほか、役場や学校も置かれた焼津の中心地でした。現在の焼津市役所もここにあります。

現在のこの付近の道はごく普通の細い街路という感じですが、住宅が建て込んでいるわりには見通しが良く、おおむねまっすぐに道が続いているのがわかります。この付近は海岸線が南北にまっすぐ伸びているので、それに沿って町をつくれば自然にまっすぐな道が出来上がったのではないでしょうか。

焼津市役所の脇を通り過ぎたあたりに、小ぶりな欄干があります。昭和28年(1953年)竣工、崩し字で書かれた橋の名前はたぶん「榊橋」だと思うのですが自信がありません。片側の欄干のみが暗渠の末端にガードレールがわりに残されているような状態ですが、なんだか趣のある姿をしていて気になります。

ところで、『地理院地図』などによると、この市役所脇の道は現在、県道31号に指定されているようです。以前の県道31号は黒石川を新川橋で渡って海側の八雲通りを通っていたとおぼえているのですが、いつの間に変更になったのでしょう。県道31号は榊橋を過ぎた先の交差点で池谷街道から分かれ、八雲通りへと向かいます。

大正町(昭和通り)と線路道
昭和通り

2014年末の昭和通り

昭和通りの東側を併走する池谷街道

昭和通りの東側を併走する区間

このすぐ西側を併走する通りに、昭和通りという商店街があります。かつては周辺地域からも人が集まり大変賑わった焼津一の繁華街でした。元は大正町といい、その名のとおり大正時代に入ってから誕生した町です。

明治22年に測量された『2万正式図焼津村』を見ると、海沿いの現・八雲通りを中心に町が形成されていて、その西側を通る池谷街道を境に、陸側にはまだ町も通りも存在しなかったことがわかります。この付近は港を中心に発展した地域で、旧来の町並みは海沿いにあり、そこから内陸に向かって徐々に発展していったわけです。

『焼津市史』によると、大正町誕生のきっかけとなったのは、明治43年(1910年)8月に発生した瀬戸川の大洪水でした。この洪水は瀬戸川流域一帯に大被害をおよぼし、焼津の町も川の氾濫と海からの高潮に襲われ、後の大正町付近は土砂に埋もれてしまったといいます。被災後、復興の過程で行われた区画整理で誕生したのが大正町で、以降繁華街として発展していくのです。

この区画整理の時、被災前からあった「線路道」を中心に街が造られました。明治34年(1901年)頃から行われた大井川堤防工事の石材を運んだトロッコ軌道の跡がそうよばれていたのですが、このトロッコ軌道が通っていたのが池谷街道でした。

採石場は虚空蔵山付近にあり、そこから現・焼津市吉永付近の大井川畔まで石材を運ぶ必要がありました。この時考えられた路線のうちで最も広く直線だった池谷街道が採用され、道の片側にレールが敷設されたのです。工事終了後レールは撤去されましたが、軌道敷は残されていたそうで、これが洪水後によい目印となったのかもしれません。

余談ですが、明治43年(1910年)末頃から計画された駿遠鉄道という軽便鉄道がありました。焼津-川崎町(現・牧之原市)-中泉(現・磐田市)を通る予定だったもので、藤枝を通っていた静岡鉄道駿遠線とは別のものです。駿遠鉄道は結局挫折に終わり、実際の工事はほとんど行われなかったようなのですが、予定では池谷街道沿いを通ることになっていました。大正元年(1912年)発行の『静浜村誌』では「静浜街道に敷設する計画で現在実測中」としており、この計画はある程度具体的に進められていたもののようです。

池谷街道は上述のトロッコ軌道を通した実績があったために駿遠鉄道の路線に選ばれたのでしょうが、もしかしたらトロッコ軌道跡が残っていたことも影響したのかもしれません。昭和通り付近の「線路道」は通学路として利用されていたそうで、つまり歩道がわりに利用されるくらいには軌道敷の形が残されていたようです。他の区間がどの程度残っていたのかは不明ですが、少なくとも全く何もないところを工事するよりは楽そうです。

中央通り
中央通りの街並み、呉服店

中央通りの街並み

中央通り、本町・小川新町境付近

この少し先が小川地区との境

県道222号との交差点の手前東側にあるNTT西日本焼津ビルは、エンカ屋敷と呼ばれる城之腰の名主・村松家があった場所です。ここを越えたあたりからが、小川新町まで続く「中央通り」と呼ばれる商店街です。たぶん前述の区画整理時に中心となった通りだから中央通りなのかなーと想像するのですが、確証はありません。

正直なところ、現在は商店街というほど商店の数が多くはありません。人通り・車通りは意外に多いのですが、古い商店街跡から新しい住宅街に建て替わりつつある真っ只中という印象を受けました。

そんな中残っている店には、呉服店や洋品店など衣料品店が目に付きました。すでに閉店済みと見受けられる店舗もありましたが、かつては通りに呉服屋が何件も並ぶような客足があったわけです。様々な郷土資料を読むと、昔は、大富や東益津など周辺地域住民が、服や服地を購入するために焼津の町まで出掛けたという話をしばしば見かけます。こうした客の購入先が、これらの店だったのでしょうか。

小川新地の堰町
赤塚橋

赤塚橋

田子の橋西交差点北側

田子の橋西交差点

田子の橋西交差点南側

中央通りを振り返る

小川新町に入るといよいよ小川地区なわけですが、とくに目立つ境界などがあるわけではないので、中央通りを歩いているといつの間にか小川地区に入っていることになります。

中央通りが赤塚川を渡るところに赤塚橋が架かっています。欄干中央に昭和初期の橋周辺の写真が掲示されているのですが、ここは車通りがかなり多いので注意が必要です。この写真によると、昭和初期の時点で赤塚橋は立派な石造(かコンクリート造)の橋で、通り沿いには今と同じように建物が途切れなく並んでいたことがわかります。

赤塚橋を渡ってすぐのスーパー田子重のところが、中央通りの小川新町側の入口になります。小川新町は元は小川新地といい、明治時代以降に拓かれ発展した比較的新しい町です。『小川村誌』によると、赤塚橋付近一帯は堰(いせぎ)町といい、ここが小川を代表する繁華街でした。この堰町から焼津の町までずっと商店街が連なっていたわけで、往時はさぞ賑わったのでしょう。

『小川町誌』によると、堰町付近は明治初年までは低湿な痩せ田で、町として発展していく兆しが見え始めたのは明治10年頃のことだといいます。この地に最初に居を構えた曽根重兵衛(もしくは重助 *1)を中心に土地の改良や道路建設などが進められ、明治16年(1883年)に町に堰の名がつけられました。

この堰町開発と同時期に静浜街道の開削が行われています。もしかしたら静浜街道の路線選択に当時形成されつつあった堰町の影響があったかもしれず、あるいは双方で協力関係があったかもしれないなぁなどと想像するのですが、当時の実情を記した資料が見つからないので実際どうだったかはまったく不明です。

*1:曽根重兵衛氏名について、参考とした『小川村誌』・『小川町誌』・『焼津市史』民俗編で「十助・重助・十兵衛・重兵衛」の表記が入り混じっており、どれが本来の名なのかわかりませんでした。

→「2 小川地区(会下之島~石津)」へつづく