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池谷街道 2 小川地区(会下之島~石津)

目次: はじめに1 焼津地区(焼津港内港~小川新町)・ 2 小川地区(会下之島~石津)
静浜街道(池谷街道)路線図
県道31号
静岡県道31号と重複する区間

県道31号と合流する区間

高橋の上から南方

高橋から南は色々工事中

高橋南側から見る高草山

高橋南側から見る高草山

スーパー田子重の西側を通過して田子の橋西交差点を渡ると、県道31号が再び合流してきます。ここからこの先の石津で県道と分岐するまでの間の道は、明治42年(1909年)頃から県道「浜街道」として改修を受けており、静浜街道時代はもっと屈曲のある道だったようです。この付近から道幅が広めになっているのも、県道として拡幅されたためと推測されます。 *1

しばらく進むと道が少し上り坂になり、その先に黒石川に架かる高橋があります。高くなったところに架かっているから「高橋」なのかなーと思ったのですが、『小川村誌』によると元は「多嘉橋」と書いたらしいので、高低は関係ないかもしれません。

ここで川下方向を見ると海岸の松林が見え、これまで歩いて来た方向を振り返ると高草山が大きくそびえています。ここまでの道はほぼまっすぐに伸びていたため、だいたいどこからでも道の奥に出発地点の焼津港内港で見た市境の山々が見えました。

ここから南の県道と重複している区間は、ゆるいカーブがあり、建ち並ぶ家々が壁となって見通しが悪くなります。終戦直後には今ほど建て込んでいなかったようですが、かつてはどのような眺望があったのでしょう。木屋川河口くらいは見えたのでしょうか。

*1:県道工事開始より前の時点で、池谷街道には大井川堤防工事のためのトロッコ軌道が敷設されていました。線形改良は、このトロッコ軌道敷設時に行われたかもしれません。トロッコ軌道については「焼津地区 > 大正町(昭和通り)と線路道」を参照のこと。

会下之島
左が信香院への道

信香院への分岐

石津境付近の会下之島の街並み

石津境近くに並ぶ商店など

さて、高橋を渡った先が焼津市小川になります。ここからの区間が、今まさに区画整理工事の真っ最中です。日に日に街の形が変わっていくので、すでに訪問時とはまったく違った姿になっているかもしれません。区画整理後どうなるかは『会下ノ島石津地区(会下ノ島石津土地区画整理事業区域)計画(PDF)』で見ることができます。

この付近に会下之島という地名があり、「会下」とは禅宗の修行所といった意味の言葉です。高草山麓にある林叟院という古寺が元は会下之島にあったといい、それにちなんだ地名だともいいます。ようは、寺院を中心に発展した地域だったのでしょう。現在この場所にある寺院としては海沿いに信香院があり、以前は県道から分岐して門前に至る道があったのですが、ここは工事が進んでいて現在は途中で新しい道路に分断されています。また、訪問時は信香院前が工事中で、寺へ近づけなくなっていました。

県道は集落の中央を通っており、石津との境付近には道沿いに店舗が集中しています。大きな農機具店もあり、以前のこの付近には農地が広く残っていたことを思い出しました。現在は造成されて更地になっている場所も多いです。今後はどんな町になっていくのでしょうか。県道31号も大きく変更が加えられる予定で、区画整理後にその跡を辿るのは難しいかもしれません。

石津
静岡県道31号と池谷街道の分岐点

県道31号と池谷街道の分岐点

静岡県道31号と静岡県道416号の間にわずかに残る直線区間

二つの県道の間に残る直線区間

石津・雁橋の津島神社

雁橋の津島神社

信香院へ向かう道との分岐を過ぎて少し進むと焼津市石津になります。ここまでおおむね南を目指していた道が、この付近から南西に向かって進路を変えます。

ここでまた分岐があり、南へカーブする県道31号の脇に細い道が分かれます。この細い道が池谷街道なのですが、よく見ると池谷街道の方は道筋がまっすぐなのです。つまり、南西へまっすぐ進む池谷街道から、県道31号が南へ向きを変えて分岐したというのが本来の形なわけです。

静浜街道竣工時の幅員は広くて5.45mほどだったといいますから、この細い道が元々の姿に近いのでしょう。現在はこの少し先の県道416号手前で道が途切れてしまいますが、かつてはここから大富地区道原まで2km近く、本当にまっすぐな道が続いていました。

県道との分岐を過ぎてすぐに見える小さな社は、石津の雁橋地区で祀っている津島神社です。ここも区画整理の範囲内で、津島神社の真横を通る新しい道路が造られようとしています。池谷街道だった細い道は、近い将来消滅するものと思われます。

県道浜街道と静浜街道

ところで、話をひっくり返すようでアレですが、『石津の民俗』などを見ると、地元の人は、ここで「県道から池谷街道が分岐している」という認識だったようなので、県道との重複区間は池谷街道だったというにはちょっとビミョウなのかもしれません。

県道31号」で述べたとおり、県道31号は明治42年(1909年)頃から県道浜街道として整備された道で、明治19年(1886年)頃には開通していた静浜街道より後からできた道です。しかし、『石津の民俗』や『2万正式図焼津村』を見ると、この区間には静浜街道開通以前から、県道と同じく南北に通じる道があったようなのです。この古道と大富地区をつなぐ形で新たに拓かれたのが、石津の県道分起点から南西へ直線で通じる静浜街道です。つまり、道筋としては、池谷街道よりも県道の方が古いのです。

また、『木屋川のほとり』によると、浜街道には大正9年(1920年)から駅馬車が焼津駅・吉永間に通うようになり、これが “とてもよく利用されていた” そうです。この頃には、徒歩が主な移動手段だった静浜街道時代と比べれば、格段に交通量が増えていたはずです。おそらく人々の記憶の中には、県道浜街道時代の盛んな往来の方がよく印象に残っているのではないでしょうか。

実は、どこからどこまでが静浜街道もしくは池谷街道だったのかという問題は、なかなか難しいのです。静浜街道の事業が具体的にどのように行われたのかについては、これまで見つけた資料には記載がなく、全く不明という状態です。これだけ広範囲にわたる工事をどのように進めたのか、通行料はどのように徴収したのか、相当大勢の人が関わったと思われるが組織運営はどのように行われたのか、わからないことばかりです。

これまで辿ってきた浜街道や中央通りが静浜街道と一筋につながる道だったことは確かなのですが、静浜街道の一部として工事や通行料の徴収などが行われたのかどうかは不明です。とくに、会下之島では集落の中を通る旧来の道が街道の路線になっていたわけで、ここで通行料を取られたら地元の人は不便だったのではないかと思うのです。そういう話が見られないということは、この区間は静浜街道の管理下ではなく、料金の徴収もなかったのかもしれないとも考えられます。もっとも、交通量も多くはない古い時代のことですから、ただ単に忘れられただけという可能性もあるのですが。

一方、大正5年(1916年)発行の『静岡県志太郡誌』には、「県道浜街道は元の静浜街道で現在改築工事中」との記述があり、公的には浜街道は静浜街道を改修したものと認識されていたように読めます。といっても、浜街道と静浜街道の重複区間は双方の全体から見ればわずかな区間でしかないので、静浜街道が浜街道になったというのも少し違和感があります。ちなみに、浜街道は後に県道吉永焼津線、通称・吉永街道となり、これが現在の県道31号となるわけです。

話がそれますが、前項「石津」で述べたとおり、県道31号・池谷街道の分岐点では、県道の方にカーブがあります。余所ならこの程度のカーブは変には見えないのですが、池谷街道の方がきれいにつながってるので、それとの対比でこのカーブが気になるのです。これ、「県道31号」の末尾で触れたように、県道31号・池谷街道重複区間の線形改良は、トロッコ軌道を敷設する池谷街道に対して行われたものという可能性を示唆するのではないかと思うのですが、どうでしょう。

県道は今でこそ見通しが悪く不便ですが、開通時は今のような激しい自動車の往来はなく、多少屈曲があっても問題にはならなかったと考えられます。事実、池谷街道との分岐以南の県道はもっと激しくグネグネしています。一方、トロッコのような線路の上を走るものは屈曲に弱く、コストをかけてでも線形を改良する必要があったでしょう。

あるいは、県道改修の際にもトロッコ軌道がまだ利用されていたか、跡地が残っていたのかもしれないとも想像しました。池谷街道を通過する予定だった駿遠鉄道の計画が始まったのが県道改修と同時期でもあり、軌道跡の線形をそのまま残したいような事情があったのかもしれません。……こうしてみると、今回辿ったのは、静浜街道跡というよりトロッコ軌道跡ということになるのでしょうか。

旧国道150号
小川交番前から県道31号方面を振り返る

小川交番前から振り返った眺め

静岡県道416号のヘキサと整備中の石津西公園

県道416号のヘキサと石津西公園

旧国道150号残存部から眺める富士山

旧150号残存部から眺める富士山

県道31号から分岐した池谷街道は、200mほど先の県道416号手前で道が途切れます。以前は小川交番の南で県道416号と合流し、石津を通過する道筋が続いていたのですが、先に行われた区画整理ですでに消滅しました。かつての道筋は『地理院地図』で見ることができます。

県道416号は以前の国道150号だった道路で、昭和30年(1955年)頃から昭和40年(1965年)頃にかけて建設工事が行われました。国道建設前の昭和21年(1946年)に撮影された空中写真『USA-M85A-6-98』を見ると、池谷街道時代からすでに国道と変わらない直線を描いていたことがわかります。つまり、ここで国道150号は、池谷街道をなぞって通っていたわけです。

焼津市内の国道150号は、平成15年(2003年)に焼津バイパスが全線開通した後、バイパスが接続する三和以北が旧道となり、平成17年(2005年)に県道416号に切り替えられました。そして区画整理が始まり、現在に至ります。

その旧150号のわずかな残存部を、現在建設中の石津西公園で見ることができます。公園工事の車両出入口として残されているようなのですが、『Yahoo!地図』などの地図上ではこの残存部にまだ県道416号の表示があり、実際の路上にもヘキサ(県道の路線番号の標識)が残されています。この状態で未だ県道指定されたままなのでしょうか。

石津西公園からは、気象条件がよい日には、高草山塊と並ぶ富士山が見えます。静浜街道時代にはこの一帯には田んぼしかなかったので、四方の眺めは非常によかったでしょう。大富地区の集落や、この先で越すことになる木屋川や栃山川の土手も望めたかもしれません。なにより、まっすぐに続く一筋の道がかなり遠くまで見渡せたものと想像されます。道が田畑に遠慮しながら進むのが当たり前だった明治時代には、非常に印象に残る風景だったのではないでしょうか。

大富地区へ

この先、池谷街道は県道416号とともに石津を通過し、大富地区の焼津市道原で県道と分かれていました。この分岐を少し過ぎたところからの道筋が現在も残っていて、この道は現在でも地元の人から池谷街道と呼ばれています。市道の路線名としても池谷街道線というようです。

大富地区から大井川までの区間の道は、まっすぐではあるものの道幅が狭い部分が多く、自動車で通るには苦労する場所もあります。この区間こそが明治時代に新設された直道・静浜街道の特徴を最もよく残しているわけで、ここを訪れずに静浜街道を辿ったとはいえないとも思うのですが、今回はここまでで終了とします。残された道もいつまでもあるとは限らないので、なるべく早いうちに訪問したいものです。