為善館跡

明治初期に創設された小学校「為善館」跡地の碑

為善館跡

為善館跡

為善館跡、説明看板

説明看板

為善館跡、周辺

庇付きの建物が八百屋・本陣

碑の内容
  • 碑の表面に「為善館跡」、右側面に「青島小学校創立百周年記念、平成二年五月二日建(以下地中に隠れている)」、左側面に「創立明治六年五月」。
  • 碑の隣に「為善館について」の看板が建っている。
解説

明治5年(1872年)、日本で最初の近代的な教育法令である学制が公布されました。これを受けて、志太地区では明治6年から小学校が各地に創設され始めました。その多くは地元有力者など地域の有志によって設けられたもので、授業は有料でした。こうした最初期の小学校を、為善館跡の説明看板では「寺子屋の学校化したようなもの」と表現しています。

為善館は、このような最初期の小学校の内の一つです。明治6年(1873年)5月、志太村・南新屋村・瀬古村・水上村と稲川村の一部が連合し、志太郡志太村家地太(かじた)に創設。この時すでに廃寺となっていた攝取院の堂宇を校舎として利用しました。現在碑の北側にある八百屋・本陣の裏あたりが校地だったとされています。

学区は創設に関わった5ヶ村で、明治7年(1874年)の生徒数は男子100名・女子27名、教員3名、授業料は1月につき6銭2厘でした。

尋常小学 前島学校 志太分教室

明治19年(1886年)、小学校令公布にともなう組織改変があり、為善館と前島村の博習舎を統合した尋常小学前島学校が設立されました。この学校は旧来の学校をそのまま校舎として使用し、為善館は前島学校志太分教室となります。この時は学区に変更はありませんでした。

明治22年(1889年)、青島村の成立に伴い、1村1学区とした青島尋常小学校が設置されます。為善館の学区内だった瀬古村は稲葉村に編入したため、青島尋常小学校の学区からは外れました。

青島尋常小学校は、当初は為善館などの校舎を分教室として使用しました。明治23年5月、下青島に新校舎が完成すると分教室は廃止され、為善館はその歴史を閉じました。

その後、明治43年(1910年)8月の瀬戸川大洪水で志太一帯がさらわれ、為善館だった建物も流失し、現在では正確な位置がわからなくなってしまったそうです。『青島町誌』によると、この時の水害は、豪雨により瀬戸川堤防が志太地先で決壊、東海道本線以北が一面川となるような大洪水が発生、志太・稲川付近は完全に濁流の中となり孤立状態に陥ってしまったといいます。

青島地区の学校跡碑:青島尋常小学校跡青島小学校校跡碑
参考文献
静岡県志太郡役所編『静岡県志太郡誌』1916年(国立国会図書館デジタル化資料
静岡県志太郡青島町編『青島町誌』1930年(近代デジタルライブラリー
藤枝市立青島南公民館編『平成8年第6回南風まつり展示 青島の学校』1996年
学制 - Wikipedia
学制百年史 資料編 > 学校系統図:文部科学省