明治36年から約67年間使用された青島小学校の先代校舎跡地
隣に青地雄太郎君頌徳碑がある |
奥の西友も校地跡 |
ここには、昭和46年(1971年)まで、藤枝市立青島小学校がありました。
現在の藤枝市市民体育館・武道館、駅西公園の一部、西友藤枝店とその西隣にある駐車場が、かつての校地です。校舎は校地の北側にありました。
藤枝市立青島小学校の前身である「青島尋常小学校」が設立されたのは、志太郡青島村成立と同年の明治22年(1889年)のこと。青島村全域を学区とし、最初の校舎は明治23年(1890年)に現在の藤枝市下青島279付近に建設されました。青島小学校校跡碑から西へ300mほどの場所です。
ところが、この初代校舎は、明治30年(1897年)9月9日の暴風雨で全壊してしまいます。この後は、現在の藤枝市文化センターの位置にあった公会堂を仮教室として、急場をしのぎました。
明治33年(1900年)、下青島字一本松を新校舎建設地とすることが認可されます。そして明治36年(1903年)、同地に新校舎が完成し、暴風雨の被害から6年を経て全児童の移転が完了しました。当時の住所では志太郡青島村下青島字一本松236、現在校跡碑がある場所です。この二代目の校地が、増改築をうけながら昭和46年(1971年)まで使用されました。
なお、この一本松の校舎の西側には、青島村の初代村役場が明治39年(1906年)までありました。校跡碑の隣に建つ碑で顕彰されている「青地雄太郎」は、青島村の初代村長です。
青島村では、明治22年の鉄道藤枝駅開業をきっかけに町が発展し、大正11年(1922年)には町制を施行し青島町になりました。発展とともに人口も増大していき、『青島の学校』によると、明治末ごろには青島尋常小学校は近隣最大の学校になっていたといいます。
増え続ける児童にあわせて、校地・校舎も拡張・増築が繰り返されました。『青島町誌』によると、明治33年度の尋常科児童数は946名、同年に新校地として認可された一本松の土地は1,908坪でした。これが28年後の昭和3年度には1,425名に増え、校地は5,861坪に拡張されていました。昭和46年の最終的な校地面積は、7,000坪ほどになっていたようです。
太平洋戦争終結後の昭和22年(1947年)、教育制度の改革により「青島小学校」に改称されます。昭和29年(1954年)には周辺町村が合併して藤枝市が誕生し、藤枝市立青島小学校になりました。また、昭和38年(1963年)には青島東小学校が新設され、田沼・青木など旧青島小学区の東側地域の児童がそちらに通うようになりました。
藤枝市内では、昭和34年(1959年)ごろから校舎の鉄筋コンクリート化が始まっていました。青島小学校では、これにあわせて、校地を少し西の下青島字杉ノ谷に移すことになりました。『青島の学校』によると、青島東小学校分離で学区が西に寄ったことが、移転の理由だったといいます。
この新校舎建設予定地は、「古東海道」が通っていた瀬戸山の跡地でした。瀬戸山は昭和30年代に東海道新幹線・東名高速などの建設のため山土を供出し大部分が消滅、その跡地に広い造成地が残されていました。
下青島の新校舎への移転は、昭和46年(1971年)2月8日に完了しました。ここが、現在の藤枝市立青島小学校です。