後の藤枝市立青島小学校、青島村成立と同時に設立された尋常小学校の跡地
説明看板 |
こちら側に学校があった |
青島尋常小学校は、明治23年(1890年)5月2日に設置認可を受け開校、同年6月13日にこの場所に新校舎が完成しました。校地があったのは現在の下青島279付近、当時の住所では志太郡青島村下青島字広島になります。碑がある地点は、学校敷地の南西角でした。
なお、碑の建立者に関する記述は見つけられませんでしたが、形状などから察するに、「為善館」の碑と同じく、青島小学校百周年記念事業実行委員会によって建立されたものと思われます。
青島地区の小学校は、明治6年ごろから地域有志によって設立されはじめ、明治19年(1886年)には小学校令公布にともない旧来の学校を改組統合した青島学校・前島学校が設立されました。
明治22年(1889年)3月1日、志太郡青島村が成立します。これには、元の上青島村・下青島村・久兵衛市右衛門請新田・内瀬戸村・瀬戸新屋村・水上村・前島村・南新屋村・青木村・志太村および稲川村の瀬戸川右岸側が含まれました。
青島村成立にともない学区改正が行われ、青島村全域を学区とした青島尋常小学校が設立されます。当初は旧来の青島学校・前島学校を校舎として、同年4月1日に開校しました。校舎設置が認可されたのは翌明治23年(1890年)5月2日、約1ヵ月後の6月13日に下青島字広島に新校舎が落成しました。
『青島の学校』によると、この場所が校地として選ばれたのは、学区全体のおおよそ中央に位置し、土地が高く乾いており、風通しや日当たりも良い快適な土地だったためといいます。今でこそ住宅が建て込んでいる場所ですが、当時は南側には一面の田園地帯が広がっていました。また、学校北側の道路は浜街道・焼津道などと呼ばれた青島村のメインストリートだった道で、交通の便もよかったと考えられます。
明治30年(1897年)9月9日未明、暴風雨にあい、この広島の校舎は全壊してしまいました。夜中のことで児童はおらず、宿直などで校舎に残っていた2名にも幸いに怪我はありませんでした。
この後10月7日から、前島字芝田にあった公会堂(現・藤枝市文化センター)を仮教室として授業が再開されます。当時の青島村は鉄道開通による人口増大期の真っ只中で、小学校の児童数も600名を超えていました。『青島の学校』によると、この人数を公会堂だけで受け入れることはできず、ただちに仮校舎が建設されるなど、かなりの苦労があったようです。
明治36年(1903年)12月1日、下青島一本松236(現・西友藤枝店)に新校舎が完成。罹災から6年を経て、全児童の移転が完了しました。