青島史蹟保存会「古東海道蹟」

古東海道蹟

古東海道蹟

古東海道蹟、説明板

説明看板

古東海道蹟、周辺

左・旧東海道、右・古東海道

古東海道蹟、古東海道

古東海道跡の小道

碑の内容
  • 石碑の表題は「古東海道蹟」。小林治助の書。
  • 説明看板の表題は「(6) 古東海道跡」。
周辺の様子
青島町全図+東海道

昭和初期の「青島町全図」に古東海道の路線を描き加えた図
元図:国立国会図書館 近代デジタルライブラリー:『青島町誌』

上の地図はマウスカーソルを乗せるかタップすると現在の道路を描き加えた図に切り替わります。元の図に戻すには、マウスカーソルをどけるか、図以外のところをタップしてみてください。

この地図には藤枝市内瀬戸・上青島・下青島・瀬戸新屋・水上付近が含まれています。現在ではこの中央に国道1号が通り、その周辺には住宅や商業施設が建ち並んでいます。こうした街並みが造られたのは戦後のことで、それ以前には図に見られるような丘が並んでいました。水上ではこの丘の麓に水が湧く場所が何箇所かあり、そのもっとも大きなものが図中にもある水上池でした。

旧東海道と古東海道

この付近には、現代の東海道ともいうべき国道1号と、江戸時代に整備された旧東海道、そして江戸時代以前に利用されていた「古東海道」の路線があります。鉄道の東海道本線も含めれば、4本の「東海道」があるわけです。

江戸時代に整備された旧東海道は、現在でも青島地区に道筋がほぼそのまま残っています。東の藤枝宿を出た旧東海道は、瀬戸川を勝草橋付近で渡って南下し、青木の五叉路(国道1号との交差点)で国道1号と県道225号(駅前通り)の間を通る市道に入り、瀬戸新屋の六地蔵こと鏡池堂西側で県道222号に合流。そしてその先、上青島の一里山交差点で国道1号に合流しています。

上の地図はこの道中の中ほどで、ここで旧東海道は連なる丘を南へ避けて通っていました。この丘のうち、藤枝市下青島・上青島・内瀬戸にかけての旧東海道北沿いにあったものを、瀬戸山といいました。現在でいえば、国道1号南側の藤枝市立青島小学校からマジオドライビングスクール付近までがその跡地になります。昭和30年代の東名高速工事に山土を供出し大部分が消滅、現在残っているのは青島小学校東側のわずかな部分のみです。

その瀬戸山残存部に、旧東海道から分かれて小学校の手前まで登っていく細道があり、これが古東海道跡とされています。『青島町誌』によると、古東海道は瀬戸新屋の水神社付近から瀬戸山に上り、内瀬戸でその西端に至るまでずっと山上の道を通っていました。同書編纂時には大部分が茶畑などに開墾されて消滅していましたが、内瀬戸側に旧街道跡らしき一筋の窪地が残っていたそうです。

古東海道蹟碑は瀬戸山の東の登り口に建っているわけですが、ここから東へ向かう東海道にも旧道がありました。旧東海道を少し西へ戻ったところにある「東海道追分」から分岐する、龍太寺山南麓周りの道です。

青島史蹟保存会「東海道追分」 へつづく

東海道の変遷

東海道というのは、ご存知のとおり、畿内と東国とをつなぐ太平洋側の主要街道です。古代から整備され、その路線は時代ごとに大小の変遷を経ました。志太地区では、元は海寄りを通っていた道が、時代が進むにつれ内陸へと移っていきました。その変遷は以下のとおりです。

  1. 初倉(島田市阪本付近)・小川(焼津市西小川付近)間で大井川を渡って、日本坂(焼津市・静岡市境)を越える。
  2. 初倉・前島(藤枝市前島)間で大井川を渡って、宇津ノ谷峠(藤枝市岡部町・静岡市境)を越える。
  3. 金谷(島田市金谷)・島田(島田市河原付近)間で大井川を渡り、宇津ノ谷峠を越える。

初倉・小川間の路線は古代に利用されたもので、宇津ノ谷峠越えは平安時代から利用されるようになり、金谷付近から大井川を渡るようになるのは鎌倉時代中期以降のことのようです。これが江戸時代に入って江戸・日本橋と京都・三条大橋をつなぐ街道として整備され、青島史蹟保存会の説明板にいう“松並木の東海道”となります。

このような路線変更の原因は、大井川の影響によるところが大きかったようです。江戸時代以前の大井川は下流の川筋がたびたび移動し、時には流れが幾筋にも分かれて広がるということもありました。また、大井川が流れた後には葦原や湿地が広がっていて、昔の志太平野は平地といえども通行しやすい土地ではありませんでした。こうした理由からその時々で都合のいい通行場所を探さなくてはならず、その結果上記のような路線の変更が発生したのです。

青島史蹟保存会の碑にいう「古東海道」は、金谷付近から大井川を渡るようになった後に利用されるようになった道です。室町時代の紀行文・飛鳥井雅世『富士紀行』には「せと山」を越えたという記述が見られ、これが説明看板にいう“瀬戸の山越え”です。このころの東海道は、島田宿・藤枝宿間では平地を避けて山の上の道を通過していたようです。

古東海道が山上を通っていた理由は、前述したような地勢条件のためです。大井川の川筋が安定するようになったのが江戸時代初めごろ、それに加えて河川改修や新田開発が行われ平地の通行が可能になり、東海道は瀬戸山の麓沿いを通るようになります。しかし、江戸時代の東海道が完成した後も、洪水発生時などには瀬戸山越えの古東海道が利用されたようです。

青島にまで及んだ大井川の洪水

青島史跡保存会の説明看板には“大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った”とあります。大井川の洪水が瀬戸山付近にまで到達した例は実際にあったそうで、『志太郡誌』によると、慶長9年(1604年)の大井川大洪水では、島田市向谷で堤防を決した濁流が北側の山地に突き当たり、青島地区を通って海に流れ入ったといいます。

現在では想像もしがたいことですが、大井川の洪水が青島地区にまで及ぶことは、江戸時代はじめごろまではままあったようです。『青島町誌』から例を引くと、瀬戸山南西側の中腹にあった無縁寺(現・延命地蔵堂)は、寛永年間の大井川洪水で流れ着いた死者を供養するために建てられたものだったといいます。また、瀬戸新屋の龍太寺があったあたりには筏鼻(イカダバナ)という地名があって、この由来は昔の大井川洪水で筏が多数流れ着いたことによると伝わっていたそうです。

慶長9年の大洪水では、堤防が決壊した向谷のすぐ下流にあった島田宿は壊滅し、青島地区をはじめとする志太郡南部一帯にも大きな被害が出ました。このため、宿場は現在の元島田に一時的に移転しなければなりませんでした。また、そこから東へは、島田市東光寺・岸などの山の上に迂回して通行したといいます。青島地区の「古東海道」も、こうした非常時の迂回路として使われ続けたのでしょう。

関連項目
瀬戸山から東へ続く古東海道の道筋:青島史蹟保存会「古東海道追分」
参考文献
桑原藤泰『駿河記』上巻、足立鍬太郎校訂、加藤弘造出版、1932年(国立国会図書館デジタルコレクション
静岡県志太郡役所編『静岡県志太郡誌』1916年(国立国会図書館デジタルコレクション
静岡県志太郡青島町編『青島町誌』1930年(近代デジタルライブラリー
紅林時次郎『島田六合大津大長郷土史稿』 其ノ5、 1936年(国立国会図書館デジタルコレクション
藤枝市立青島南公民館編『平成11年度第10回青島南風まつり 藤枝駅と青島』2000年
東海道 - Wikipedia
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス:2万正式図青嶋村
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