志太の石碑・石仏めぐり

青島史蹟保存会「古東海道蹟」

古東海道蹟
古東海道蹟
古東海道蹟1
石碑
古東海道蹟2
看板
古東海道蹟3
旧東海道側から

碑データ

  • 碑の内容
    • 碑表:古東海道蹟
    • 碑裏:[なし]
    • 碑右:小林治助書
    • 碑左:平成六年十一月三日 青島史蹟保存会
    • 看板:(6) 古東海道蹟 [本文略] 平成十年五月青島史蹟保存会
  • 石碑建立時期:1994年(平成6年)11月3日
  • 説明看板設置時期:1998年(平成10年)5月
  • 建立者:青島史蹟保存会
  • 所在地:静岡県藤枝市下青島37-41北東側、県道222号沿い【地図
  • 最終確認日:2020年02月10日

メモ

青島町全図+東海道

上の地図には、藤枝市内瀬戸・上青島・下青島・瀬戸新屋・水上付近が含まれています。現在のこの場所は、中央に県道381号(旧国道1号)が通り、その周辺に住宅や商業施設が並ぶ町です。こうした街並みが造られたのは戦後のことで、それ以前には昭和初期の図に見られるような丘がいくつも続いていました。水上ではこの丘の麓に水が湧く場所が何箇所かあり、そのもっとも大きなものが今のユニクロ付近にあった水上池でした[1]

旧東海道と古東海道

江戸時代に整備された旧東海道がこの一帯を横切っており、下青島にはさらに古い時代の「古東海道」の道筋がわずかに残っています。また、旧東海道の北側を通る県道381号は、昭和の時代に旧東海道の新線として建設された旧国道1号です。そして南に並行する鉄道の東海道本線。ここには4本の「東海道」があるともいえるわけです。

江戸時代に整備された旧東海道は、現在でも青島地区に道筋がほぼそのまま残っています。東の藤枝宿を出た旧東海道は、瀬戸川を勝草橋付近で渡って志太の一里塚の前を南に進み、青木の五叉路で県道381号と県道225号(駅前通り)の間を通る市道に入り、瀬戸新屋の六地蔵こと鏡池堂西側で県道222号に合流。そしてその先、上青島の一里山交差点で県道381号に合流しています。

上の地図はこの道中の中ほどで、ここで旧東海道は連なる丘を南へ避けて通っていました。この丘のうち、藤枝市下青島・上青島・内瀬戸にかけての旧東海道北沿いにあったものを、瀬戸山といいました。現在でいえば、県道381号と県道222号のあいだ、藤枝市立青島小学校からマジオドライビングスクール付近までがその跡地になります。昭和30年代の東名高速工事に山土を供出し大部分が消滅、現在残っているのは青島小学校東側のわずかな部分のみです[2]

その瀬戸山残存部に、旧東海道から分かれて小学校の手前まで登っていく細道があり、これが江戸時代以前の古東海道の跡とされています。『青島町誌』によると、古東海道は瀬戸新屋の水神社付近から瀬戸山に上り、内瀬戸でその西端に至るまでずっと山上の道を通っていました。同書編纂時には大部分が茶畑などに開墾されて消滅していましたが、内瀬戸側に旧街道跡らしき一筋の窪地が残っていたそうです。[3]

古東海道蹟碑は瀬戸山の東の登り口に建っているわけですが、ここから東へ向かう東海道にも旧道がありました。旧東海道を少し西へ戻ったところにある「東海道追分」から分岐する、龍太寺山南麓周りの道です。

→ 青島史蹟保存会「東海道追分」 へつづく

東海道の変遷

東海道とは、畿内と東国とをつなぐ太平洋側の主要街道です。古代から整備され、その路線は時代ごとに大小の変遷を経ました。志太地区では、元は海寄りを通っていた道が、時代が進むにつれ内陸へと移っていきました。その変遷は以下のとおりです。

  1. 初倉(島田市阪本付近)・小川(焼津市西小川付近)間で大井川を渡って、日本坂(焼津市・静岡市境)を越える。
  2. 初倉・前島(藤枝市前島)間で大井川を渡って、宇津ノ谷峠(藤枝市岡部町・静岡市境)を越える。
  3. 金谷(島田市金谷)・島田(島田市河原付近)間で大井川を渡り、宇津ノ谷峠を越える。

初倉・小川間の路線は古代に利用されたもので、宇津ノ谷峠越えは平安時代から利用されるようになり、金谷付近から大井川を渡るようになるのは鎌倉時代中期以降のことのようです。この鎌倉以来の道が江戸時代に入って江戸・日本橋と京都・三条大橋をつなぐ街道として整備され、青島史蹟保存会の説明看板にいう「松並木の東海道」となります。

このような路線変更の原因は、大井川の影響によるところが大きかったようです。江戸時代以前の大井川は下流の川筋がたびたび移動し、時には流れが幾筋にも分かれて広がるということもありました。また、大井川が流れた後には葦原や湿地が広がっていて、当時の志太平野は平地といえども通行しやすい土地ではありませんでした。こうした理由からその時々で都合のいい通行場所を探さなくてはならず、その結果上記のような路線の変更が発生したのです。

青島史蹟保存会の碑が示す「古東海道」は、金谷付近から大井川を渡るようになった後に利用されるようになった道です。室町時代の紀行文、飛鳥井雅世『富士紀行』には、「せと山」を越えたという記述が見られます。これが説明看板にいう「瀬戸の山越え」です。このころの東海道は、島田宿・藤枝宿間では平地を避けて山の上の道を通過していたようです。

古東海道が山上を通っていた理由は、前述したような地勢条件のためです。大井川の川筋が安定するようになったのが江戸時代初めごろ、それに加えて河川改修や新田開発が行われ平地の通行が可能になり、東海道は瀬戸山の麓沿いを通るようになります。しかし、江戸時代の東海道が完成した後も、洪水発生時などには瀬戸山越えの古東海道が利用されたようです。

青島にまで及んだ大井川の洪水

青島史跡保存会の説明看板には、「大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った」とあります。大井川の洪水が瀬戸山付近にまで到達した例は実際にあったそうで、慶長9年(1604年)の大井川大洪水では、島田市向谷で堤防を決した濁流が島田市北側の山地づたいに瀬戸山に達し、高洲地区の高柳にまで流れ入ったといいます[4]

現在では想像もしがたいことですが、大井川の洪水が青島地区にまで及ぶことは、江戸時代はじめごろまではままあったようです。『青島町誌』から例を引くと、瀬戸山南西側の中腹にあった無縁寺(現・延命地蔵堂)は、寛永年間の大井川洪水で流れ着いた死者を供養するために建てられたものだったといいます[5]。また、瀬戸新屋の龍太寺があったあたりには筏鼻(イカダバナ)という地名があって、この由来は昔の大井川洪水で筏が多数流れ着いたことによると伝わっていたそうです[6]

慶長9年の大洪水では、堤防が決壊した向谷のすぐ下流にあった島田宿は壊滅し、青島地区をはじめとする志太郡南部一帯にも大きな被害が出ました。このため、一時的に宿場を現在の元島田に移転しなければなりませんでした。また、元島田から東の東海道は、島田市東光寺・岸などの山の上に迂回して通行した時期もあったといいます[7]。青島地区の「古東海道」も、こうした非常時の迂回路として使われ続けたのでしょう。

関連項目

脚注

  1. 『駿河記』p.576 コマ382
  2. 『青島の学校』
  3. 『青島町誌』p.155 コマ101
  4. 『静岡県史』p.110 コマ122 当資料では洪水発生を慶長10年とし、注記にて慶長9年説を紹介している。
  5. 『青島町史』p.423 コマ237
  6. 『青島町誌』p.170 コマ109
  7. 『駿国雑志』2冊 pp.150-159 コマ80-84

参考資料