八兵衛の正体を探った人々

目次
前書き
六部説
和歌山県御坊市出身説
尾鷲の中島八兵衛説
大洲村弥左衛門川原に伝わる川除けの人柱説

志太地区で祀られる「八兵衛さん」という存在は、おそらく実在した人物だとは考えられているものの、八兵衛本人に関する記録は一切残されていないし、八兵衛を信仰する人々の間にもはっきりした話は伝わっていません。八兵衛がなにをして志太地区で祀られるようになったのか、現在ではまったくわからなくなっているのです。信仰の対象がどのような存在だったのか伝わっていないというのはなんとも不思議なことですが、この謎めいた状況がかえって八兵衛を興味深い存在にしているという側面もあります。

八兵衛が何者かということはやはり誰でも気になるものらしく、過去には何人かの研究者が八兵衛の正体を探る試みを行っています。正直なところ、こうした試みから生まれた説には強引だったり誤解と思われる部分もあり、事実に近そうだといえるような説はいまだ登場していません。これは、そもそも根拠となるべき記録が何一つ発見されていないことが最大の原因なので、現状ではどうしようもないことではあります。

とはいえ、調査研究を重ねた人のいうことですから、どの説にも注目すべき点があることは間違いありません。たとえば、これらの説のなかで紹介される八兵衛信仰の背景に存在したと考えられる風習や伝説は、私のような素人にはまず思いつくものではなく、とてもよい参考になります。こうした部分は、今後八兵衛の正体を探る人にとっても考え方の筋道となりうるものでしょう。過去にどのような研究がなされたかということを知っておいて損はありません。

六部説

『大富村史』では、八兵衛は六部だったという説が唱えられています。六部というのは、簡単にいえば、お遍路さんのように全国各地を巡礼してまわる人のことです。

もともと、八兵衛を信仰する人々のなかには、八兵衛は六部やそれに類した巡礼者のような存在だったという人もいました。また、志太地区には、八兵衛以外の六部や巡礼者にまつわる伝説も残っています。『大富村史』では、これらの言い伝えや伝説を材料にして、八兵衛が六部となり放浪の旅の末に志太郡にたどり着いたという物語を描いています。

和歌山県御坊市出身説

『大井川町史』を編纂していた大井川町では、八兵衛碑に刻まれる「紀伊国川中島」を探すため、和歌山県内の自治体などに調査協力を求めました。その結果、和歌山県の郷土史家である熊代佐市が見つけたのが、和歌山県御坊市藤田町吉田にある中島という土地でした。

この中島に住む吉田家は、庄屋などを務めた家柄で、代々の当主は名前に「八」の字を冠し、ゆかりの深い土地に八幡山と久艘谷というところがあります。八兵衛はこの吉田家に縁のある人で、八兵衛の御詠歌にうたわれる「山八つ 谷は九つ」は吉田家ゆかりの地と符合するのではないかと熊代佐市は推測しています。

『大井川町史』では、出身地については熊代説を紹介しているものの、「山八つ 谷は九つ」の由来については異なる意見を提唱しています。このおまじないのような言葉は修験道当山派の疫癘退散の呪文にも見られるものだといい、そこから八兵衛は修験者だったのではないかと推測しています。吉田家の縁者だった八兵衛は修験者となって諸国行脚の旅に出て、志太地区を訪れたさいに疫病平癒の加持祈祷を行い、それが縁となって地元の小長谷家の婿養子になったというのが『大井川町史』が語る八兵衛の人生です。

尾鷲の中島八兵衛説

『静岡県史』では焼津市と旧大井川町で八兵衛についての調査を行い、そのなかで焼津市内には八兵衛を薬売りだと伝えるところが三ヶ所あったことが判明しています。この三ヶ所のうち、石脇下では八兵衛碑に「おわせ」と刻んでおり、田尻砂原(泉竜寺)では八兵衛のことを「八郎兵衛長者」と呼んでいます。これらのことから、八兵衛は尾鷲からやってきた薬売りの長者だったと『静岡県史』では推定しています。この条件に該当しそうな人物が、紀伊国牟婁郡尾鷲組(現三重県尾鷲市)の豪商土井八郎兵衛に仕えた中島八兵衛だといいます。

大洲村弥左衛門川原に伝わる川除けの人柱説

これはどちらかといえば言い伝えの部類に入ると思うのですが、上記諸説とあわせて紹介されることが多いので、ここでも紹介しておきます。

旧大洲村弥左衛門川原は、現在では藤枝市泉町の一部になっています。長谷川一孝は、この川原に住む人から八兵衛は川除けの人柱に立った人だという話を聞き出し、それを『民俗大井川』誌上で報告しています。

川原の人が言うには、昔の川原は洪水の被害が多かったところで、どれだけ普請を重ねても堤防が決壊してしまい困り果てていたところ、八兵衛が人柱になってくれて水害が治まったというのです。このお話の中では、八兵衛が人柱となった場所は明示されていません。とはいえ、川原は木屋川と栃山川に挟まれた土地で、ここの八兵衛碑は現在は栃山川の堤防上に安置されています。おそらく八兵衛は栃山川の堤防の人柱になったと考えられていたのでしょう。