川中島八兵衛の御詠歌(おしょうや)

八兵衛を供養する御詠歌

川中島八兵衛の供養のさいに、八兵衛のために作られた御詠歌を唱える地区があります。

御詠歌による供養は、多くの場合、8月のお盆に行なわれる八兵衛の供養祭のときに、念仏講のような年配の女性を中心とする念仏や御詠歌を唱える集団によって行なわれます。この集団を「おしょうやのつれ」と呼ぶところもあります[1]。「おしょうや」とは念仏のことで、「オショーヤ」と表記されることもあります。「おしょうやのつれ」は、いっしょに念仏を唱える連れ(仲間)といった意味です。

八兵衛の御詠歌がいつ誰に作られ、どのように各地に広められたのかは、わかっていません。原典といえるようなものも見つかっていません。焼津市上小杉に残る「八郎兵衛長者御詠歌」を収録した御詠歌集が明治39年(1906年)のものだそうですから[2]、御詠歌が作られたのはこれ以前ということはわかります。また、旧大津村(現島田市)では、八兵衛を祀りはじめたのが「念仏を唱える老人連」との話もあります[3]。御詠歌や念仏を唱和するという供養の形式自体は、かなり古くから存在したのではないでしょうか。

御詠歌は、統一された教義や教典が存在しない八兵衛信仰においては、人々が八兵衛をどうとらえていたのかがうかがえる貴重な資料でもあります。それを実際に聴く機会は容易には得られませんが、歌詞はいくつかの資料に記録されているものを確認できます。

御詠歌の歌詞

御詠歌の歌詞は、どこの地区のものも基本は同じで大きな差異はないといわれています[4]。しかし、資料に記録された歌詞を見比べると、こまごまとではあるものの意外に異なる部分が多いのも事実です。

基準例として、『大富村史』に掲載された御詠歌の歌詞を以下に引用します。

  • 一、紀の国の 川中島の 八兵衛さん ここにまつりて 拝むひとこえ
  • 二、山八つ 谷は九つ 身は一つ 我が行く末は 柊の里
  • 三、みな人の 悪しき病を 救はんと ちかいの船に のるぞうれしき
  • 四、紀の国の とうきわたりと 聞きぬれど 祈れば ちかい おめぐみもある
  • 五、ありがたや 川中島の 八兵衛さん みなおめぐみに すがらぬはなし
  • 六、往ききする人も休みて 拝むべし 誰へだてなく 救いたまえば
  • 七、怠らず皆 まつりける しるべには たむけの華の たえることなし
  • 八、打ちよりて となゆる法の 声きけば またあはれみも とうとかるべし
大富村編『大富村史』1981年、pp.205-206

『大富村史』にはこの御詠歌がどこの地区のものとは書かれていないのですが、とくに断りがないということは、かつての大富村、現在の焼津市大富地区内のどこかで唱えられていたものなのではないでしょうか。なお、これが多数ある御詠歌の中で標準的な歌詞というわけではなく、『大富村史』は発見できた御詠歌資料の中では最古のものという理由で基準例に採用しました。

この基準例を含む多くの御詠歌に見られる特徴として、五・七・五・七・七の短歌形式の歌詞を八回くり返す、八番構成になっていることがあげられます。この八番というのは、八兵衛の八にちなんでいるという説もあります[5]

歌詞の細部をみていくと、基準例の一番の「拝むひとこえ」は、ほかの大半の御詠歌では「拝むひとびと」となっています。ほかには、七番「しるべには」は「しるしには」、八番「またあはれみも」は「あわれにもまた」とするものが大半です。また、四番「祈れば ちかい」は「まいりて ちかい」とするところもあり、五番「川中島の八兵衛さん」は「川中島のおはせさん」や「おばやさん」などばらつきがみられます。

このように、基準例とほかの御詠歌をくらべると、歌詞に使われた語句が違う点がいくつかみつかります。しかし、こういった差異は、歌詞の意味にはそれほど影響していません。わかりやすいものから見れば、七番はしるし・しるべとも「証し」を意味しており、四番もどちらにせよ「八兵衛を拝めば」という意味です。一番は「我々が祀り拝んでいるのは八兵衛である」という宣言です。八番は、ややニュアンスは違えど、ともかく八兵衛の御詠歌を唱える人々の声から尊いという気持ちが呼び起こされるというわけです。

御詠歌の歌詞に見られる差異のほとんどは、上にあげたような、語句や言葉遣いが少しずつ異なるが意味はだいたい同じというものです。まったくかけ離れた内容の御詠歌というものはなく、この点では、項のはじめで紹介したとおり、ほとんどの御詠歌で基本は同じといえます。

個性的な御詠歌

御詠歌のなかには、少数ながら基準例とは大きく異なる特徴を持つものもあります。たとえば、焼津市本中根で記録された御詠歌は、基準例の二番・五番・六番にあたる歌詞が欠けており、全体で五番しかありません。焼津市石津不岩院や藤枝市滝沢上では、八番までは基準例とよく似ていますが、それに続けて九番があり、それぞれの九番はまったく異なる歌詞です。

焼津市一色浜の御詠歌は、六番しか記録されていません。ところが、この六番の構成が独特で、基準例六番の歌詞の後に「諸人の悩みや病救わんと 川辺に立ちて流す八兵衛」と続きます。一番のうちで五・七・五・七・七を二回くり返しているわけです。他の番は記録されていないため、すべての番で同じ構成だったのか、全体で何番まであったのかは知ることができません。もしもすべての番で同じ構成だったとしたら、非常に個性的な歌詞を持つ御詠歌だということになります。

焼津市上小杉の御詠歌は、他の御詠歌と比べると語句の差異が大きく、歌詞の意味が少し異なる部分もあります。これは最初の項で紹介した明治39年の御詠歌集に収録されたもので、古い時代に記録された御詠歌に大きな差異がみられるのは興味深いことです。とくに目を引く点として、五番の「川中島の 八兵衛さん」が、上小杉では「かわながしまの をはやしさん」となっています。この部分は前述のとおりほかの地区でも使用する語句がまちまちで、信仰の対象である八兵衛の呼称が各地で異なっていたかのような状況が発生しています。

個性的な御詠歌というのとは異なりますが、別の種類の御詠歌を唱えたり、御詠歌を唱えないところもあります。たとえば、焼津市中新田おはつぼたと藤枝市瀬戸ノ谷滝ノ谷では、八兵衛の御詠歌は唱えず、西国三十三番の御詠歌を唱えていました[5]。御詠歌を唱えない例としては、焼津市田尻泉竜寺では、平成2年(1990年)ごろの供養祭では御詠歌を唱えなかったと記録されています[6]

ところで、このような個性的な御詠歌が例外的な存在であるかどうか、実は、はっきりとはわかりません。記録された御詠歌の歌詞の数は多くはなく、信仰地域全体の中で八兵衛の御詠歌を唱えていた地区がどれほどあったのかもわからないため、こういった特徴を備える御詠歌が本当に小数だったのか、確かにはわからないのです。

御詠歌の歌詞が異なるのはなぜか

八兵衛の御詠歌は、いつ誰が作りどのように広められたのかわかっておらず、各地区でどのように伝承してきたかも詳しくは記録されていません。また、御詠歌の原典も見つかっていないため、元々の歌詞を知ることもできません。このため、どの時点で差異が発生したのか、具体的に推し量ることは困難です。しかし、人から人へと伝えられるあいだに言葉が入れ替わったという例は、間違いなくあるものと考えます。

八兵衛に関して地区同士で交流があったとは聞かず、広い地区にまたがって御詠歌を教える指導者のような存在も確認されていません。御詠歌の伝承は、多くの場合、各地区の八兵衛を信仰する人々自身によって行なわれてきたものと考えられます。また、御詠歌の起源がわからなくなっているということは、御詠歌が各地区に伝播してから、起源が忘れられるほどには長く時間がたっていることを示唆しています。地区ごとに御詠歌を伝承する状態が長期間にわたって続いた結果、地区ごとに独特の言葉遣いが生まれたのではないでしょうか。

むしろ、起源が忘れられ正しい御詠歌というものも存在しない状態で、大きな差異がわずかしかないほうが不思議ともいえます。たとえば、八兵衛がどのような人物だったかということについては、記録がまったく残っていません。御詠歌と同様に起源が失われ、正しい八兵衛像をどこからも知り得ない状態です。このために、薬売りや旅の僧や川除けの人柱など、多種多様な八兵衛像が確認できます[7]。このこととくらべると、御詠歌の歌詞は不思議なくらいよく似通っています。

御詠歌については、なぜ異なるのかよりも、むしろ、なぜ異ならないのかについて考えるべきなのかもしれません。しかし、前述のとおり記録された御詠歌の歌詞は多くなく、祭祀にかかわる記録もわずかです。それを論じられるほどの材料を揃えるのはなかなか難しそうです。

脚注
  1. 静岡県教育委員会文化課県史編さん室編『静岡県史民俗調査報告書第十八集 石津の民俗』静岡県、1993年、p.230
  2. 大井川町史編纂委員会編『大井川町史』下巻、1992年、pp.814-815
  3. 平尾良平編『大津村誌』大津村誌編纂委員会、1956年、p.387
  4. 志太の石碑・石仏めぐり > 川中島八兵衛 御詠歌(おしょうや)歌詞 掲載資料リスト」のうち、民俗大井川、静岡県史、石津の民俗、焼津市史。
  5. 長谷川一孝「川中嶋八兵衛」『民俗大井川』第1号、大井川民俗の会、1973年、p.34
  6. 静岡県編『静岡県史』資料編24民俗2、1993年、p.1124
  7. 志太の石碑・石仏めぐり > 川中島八兵衛とは何者か」参照のこと。
参考文献