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川中島八兵衛とは何者か

目次
前書き
八兵衛は本当に志太郡を訪れたのか
八兵衛碑からわかること
八兵衛御詠歌からわかること
八兵衛を信仰する地域の人々が語ったこと
まとめ、八兵衛が何者かはわからない
脚注

川中島八兵衛とはどのような人物なのかというと、これがまったくわかりません。おそらく実在した人物だろうとは考えられているものの、文書などにそれらしき人物の記録が発見されたことはなく、八兵衛を信仰する人々の間にもはっきりした話は伝わっていません。いったい何をして信仰の対象となったのか、そもそも志太郡を訪れたのかどうかすら、明確に判明してはいないのです。

八兵衛がどのような人物だったのか知りたかったら、八兵衛碑や御詠歌などの信仰の遺物や、八兵衛を信仰する人々が語った言葉などを手掛かりに探るよりほかに方法がありません。以下に、八兵衛についてわかっていること・わからないことを列挙してみます。

八兵衛は本当に志太郡を訪れたのか

長谷川一孝が『民俗大井川』で報告したところによると、旧大洲村弥左衛門本田に住む人が、八兵衛は紀伊国から勧請したものだと言っていたのだそうです[1]。これを辞書通りの意味に解釈すると、八兵衛は元々は紀伊国で祀られていた人物であり、志太郡の人々はそれを分けてもらって祀ったのだということになります。この話が事実だとすれば、八兵衛はそもそも志太郡を訪れていなかった可能性があります。

このような話はこの一例しか確認されておらず、少数派の意見であることは確かです。ただ、それをいうなら、後述するようにこの他に伝わる話もごく限られた範囲でしか通用していないものではあるのです。また、八兵衛がどこかに実在したことを示すようなものはなにひとつ発見されていません。であれば、伝説や昔話に登場する人物のような、なかば架空の存在だった可能性も考えられなくはありません。

現状では八兵衛が実在し志太郡を訪れたと断定はできないということは、一応、頭に入れておいたほうがよさそうです。

八兵衛碑からわかること

八兵衛碑に刻まれた年号のうちで、確実に読み取れる最古の年号は、安政6年(1859年)です[2]。このことから、八兵衛信仰は江戸時代末期には始まっていたことがわかります。八兵衛が実在の人物だとしたら、その生存年代は、これらの碑が建てられる以前ということになるでしょう。

八兵衛碑の銘には、「西国川中島八兵衛」や「紀伊国川中島小長谷八兵衛」、「川中島八郎兵衛」などと刻まれています。銘のうち、八兵衛・八郎兵衛は間違いなく人名でしょうが、同一人物のはずなのに二種類の名前が使われているのは不思議です。西国・紀伊国という地名については、八兵衛の出身地だと考えられますが、これらが同一の地域を指しているのかどうかは不明です。

碑銘の「川中島」や「小長谷」は何を意味しているのでしょうか。語句の並び方からすると、地名か姓のように見えます。八兵衛御詠歌のなかには、「きのくにに かわなかじまの はちべいさん」や「ありがたや かわなかじまの おはせさま」という歌詞を持つものがあります[3]。このうち「かわなかじま」は碑銘の川中島と同一の語句でしょう。川中島に住んでいる、あるいは祀られているといった意味のように読み取れ、おそらく地名ではないかと推測されます。

一方、小長谷のほうは意味も読みもはっきりしません。御詠歌にある「おはせ」が小長谷を読んだもののようにも考えられるのですが、地区によっては御詠歌の中で「こながや」とも読んでいます[3]。銘の表記自体が統一されておらず、名前すらも二通り存在することを考えると、小長谷の読みも複数あったのかもしれません。しかし、「おはせ」にしろ「こながや」にしろ、八兵衛の姓か愛称か、ともかく呼称の一つではあるようです。

八兵衛御詠歌からわかること

八兵衛御詠歌は、仏としての八兵衛の御利益を称えるものであって、八兵衛がどのような人生を歩んだかを伝える内容ではありません。唯一、「みな人の 悪しき病を 救はんと ちかいの船に のるぞうれしき」[4]という部分に、八兵衛が仏となって人々を病から救おうとしていたことが言及されています。この歌詞から、仏門に入って修業をしていた八兵衛の姿を想像することもできます。しかし、それは具体的にはどのような立場だったのか、お寺の和尚さんだったのかそれとも山野で修業する行者だったのかといったことは知ることができません。

八兵衛が病除けの仏になろうとしていたという話は、比較的広く知られていたようです。たとえば、『志太郡誌』には八兵衛は「只死に臨み、我を祀らば悪病に罹ることなしと、遺言した」とあり[5]、『大富村史』によれば大部分の人がこれと同じ考えを持っていたといいます[6]。八兵衛を信仰するうえでは御詠歌を唱えることが重要だったようなので、御詠歌の歌詞によってこの病除けの仏になろうとした八兵衛の話が広く知られるようになったのかもしれません。ただし、実際の信仰の現場においては、八兵衛の御利益とされていたのは病除けだけではなく、川除け(水害防止)や子供を守ってくれるものとして信仰していたところもありました[7]

また、もうひとつ気を付けるべき点として、御詠歌が作られた時期が不明だということがあります。焼津市上小杉に明治39年(1906年)の御詠歌集が残っているというので[8]、明治時代後期には現在のような御詠歌が存在したことは確かです。しかし、その7年後の大正2年(1913)に発行された『大津村誌』によれば、当時の大津村では早くも八兵衛が何者か知ることができなくなっていました[9]。御詠歌がつくられた時期が遅ければ、その時にはすでに生前の八兵衛の行いなどはわからなくなっていたかもしれません。

八兵衛を信仰する地域の人々が語ったこと

先にあげたとおり『志太郡誌』などでは八兵衛は死に臨み遺言したとされています。であれば、病除けの仏として信仰されるようになったのは八兵衛の死後のことと考えられます。しかし、八兵衛がいつどこで亡くなったのかは伝わっていません。多数ある八兵衛碑の中には「墓」の字を刻んだものもありますが[10]、実際に八兵衛を埋葬した墓はこれまでのところ見つかっておらず、ここがそうだという伝承もありません。

そもそも、八兵衛を信仰する人々のなかには、信仰の始まりに八兵衛の死が関係しない話を語る人もいました。たとえば、赤痢が流行したときに八兵衛さんに信心してもらったらたいそう効き目があったので祀ったという話や[1]、流行り病を治してくれた薬売りの八兵衛を流行り病除けのために祀っているなどという話です[11]。人々を救ってくれた八兵衛がその後どうしたのかは語られていないのですが、これらの話のなかでは八兵衛は死をきっかけに祀られたのではないことは確かです。

また、八兵衛と地元との関係にも、異なる話が聞かれています。上記のように地元を救ってくれた恩人だという話もあれば、地元の人々との関わりはほとんどなかったと話す人もいました。たとえば、八兵衛は木屋川の下流の方で溺死した六部だったとか、行き倒れの旅人だというような話があります[1]。これらの話のなかでは、八兵衛はたまたま志太の地を通過中に亡くなってしまっただけで、地元の人々とのふれあいなどはなかったということになります。さらに、冒頭に掲げた勧請説のように、八兵衛は志太郡を訪れたわけではないと考える人すらいるのです。

地元の人々が語る八兵衛像は多種多様で、ここまであげてきたもの以外では、偉い武将みたいな人とか[7]、村を開拓した人とか[1]、川除けの人柱に立ってくれた人だとか[1]、もはや同一人物の話をしているとは思えないような様相を呈しています。こういった話のほとんどはごく限られた範囲内でしか知られておらず、同じ地区内ですらまったく異なる話が聞かれたケースもあります[12]。比較的広範囲において共通認識となっていたのは、前述の『志太郡誌』にあるような病除けの遺言を残した人という話だけだったようです。

まとめ、八兵衛が何者かはわからない

ここまででわかっていることをまとめると、次のようになります。八兵衛さんまたは八郎兵衛さんは、西国または紀伊国出身で、川中島というところに縁がある人でした。人々を病から救う仏になろうとしていたと伝わっており、人々からは祀れば病気などの災厄を避けてくれるありがたい存在として信じられています。その信仰は幕末にはすでに始まっていました。八兵衛さんが生前どんな人物だったかについては、各地各人それぞれに異なった姿が思い描かれています。

なにもわからなかったといっているも同然で、名前すらはっきりしないというのが参ってしまいます。しかし、いったいなぜ、このようにわからなくなってしまったのでしょうか。普通なら、このような信仰の対象には、こういうことをした人だからこういう御利益があるのだというような由来がつきものです。単なる普通の人をわけもわからず神様として崇め讃えようという人はあまりいないですよね。ところが、八兵衛はそこがあいまいで、人によって話がまったく異なっているわけです。なぜこのような状況が生まれたのでしょうか。

現在までに確認されている八兵衛信仰を記録した資料のうちでもっとも古いものは、先にもあげた大正2年(1913年)発行の『大津村誌』[9]です。この本のなかで八兵衛は、「如何ナル人物ナルヤヲ知ラス只死ニ臨ミ我ヲ祀ラハ悪病ニ罹リコトナシト遺言セリ」と書かれています。ここからわかるのは、大正時代初期には八兵衛が何者か知る人がすでにいなかったという大津村の状況です。さらに、昭和46年(1971年)に発行された『焼津市誌』[7]によれば、当時の焼津市内では、かつて大津村で聞かれたほどの「具体的な話」も聞けなくなっていたといいます。

つまり、八兵衛がどのような人だったかということは、かなり早い時期にはっきりとはわからなくなっていたようなのです。多種多様な八兵衛像が存在するのは、このためではないかと考えられます。唯一の正しい八兵衛像というものが存在しないため、人々はそれぞれ独自に八兵衛像を考えざるをえなかったのではないでしょうか。八兵衛信仰には中心地や指導者などが存在せず、基本的には各地区ごとに祭祀が行なわれたことも、地域差を生む原因になったでしょう。

八兵衛の生前の情報が失われてしまったのはなぜなのでしょうか。信仰が発生したのが江戸時代であれば、明治維新という大きな時代の変化を経て、伝承が途絶えてしまったのかもしれません。また、そもそもなんの記録も残っていないことからすると、はじめから詳しいことは知られていなかったのかもしれません。一部の人が話すように八兵衛が行き倒れの旅人のような存在だったとしたら、その可能性も考えられなくはないでしょう。

不思議なのは、八兵衛が何者かわからないにも関わらず、信仰は続いたという点です。八兵衛碑の建立は第二次世界大戦直前まで盛んに行われているので、そのころまでは信仰に勢いがあったことは確かです。当時の人は、何者かもはっきりしない八兵衛を、どういう考えを持って信仰していたのでしょうか。八兵衛を行き倒れだと考えていた人々は、その行き倒れのどこに祀るだけの価値を見出していたのでしょうか。当時の人には人柄や功績など以上に重視すべきものがあったのかもしれません。それがなんだったのかは私には見当もつかないのですが。

ところで、八兵衛が何者か伝わってはいないものの、過去の八兵衛研究者たちのなかには、わずかに残された情報をもとに生前の八兵衛の姿を探った人々がいました。彼らが提唱した八兵衛の正体について「八兵衛の正体を探った人々」で紹介します。

脚注

  1. 長谷川一孝「川中嶋八兵衛」『民俗大井川』第1号、大井川民俗の会、1973年、pp.36-39「八兵衛について」
  2. 藤枝市高岡「兵太夫上の西國川中嶋八兵エ様」、藤枝市高洲「兵太夫南の西國川中嶋八兵エ様」の2基。
  3. 長谷川一孝「川中嶋八兵衛」『民俗大井川』第1号、大井川民俗の会、1973年、pp.34-36「八兵衛ご詠歌」
  4. 大富村編『大富村史』1981年、pp.205-206
  5. 静岡県志太郡役所編『静岡県志太郡誌』1916年、p.1389(国立国会図書館デジタルコレクション
  6. 大富村編『大富村史』1981年、p.205
  7. 焼津市誌編纂委員会編『焼津市誌』下巻1971年、p.680
  8. 大井川町史編纂委員会編『大井川町史』下巻、1992年、pp.814-815
  9. 曽根忠治ほか編『大津村誌』1913年、p.82
  10. 島田市落合「紀伊國川中嶋小長谷八兵衛之墓」、藤枝市瀬戸新屋「川中島八兵衛之墓」、焼津市五ケ堀之内「川中嶋八兵衛之墓」など。
  11. 静岡県編『静岡県史』資料編24民俗2、1993年、p.1122
  12. たとえば、本文中で紹介した八兵衛勧請説と川除けの人柱説は、どちらも同じ旧大洲村弥左衛門で聞かれた話。