川中島八兵衛への信仰は、どこか一ヶ所に祀られた碑や像を拝みに行くというというものではなく、各地でそれぞれに八兵衛を祀って供養するという形式で行われてきました。祭祀の運営は、たいていは町内会や近所同士の集まりなど、地元の人々で構成された小規模な集団で行なわれています。
現在の八兵衛信仰によく見られる祭祀形態は、八兵衛を祀る石碑を建てて、8月のお盆前後の時期に念仏や御詠歌で供養するというものです。碑の形式はとくに決められておらず、自然石を利用したものや墓石のように作ったものなどさまざまです。銘には「西国川中島八兵衛」・「紀伊国川中島小長谷八兵衛」・「川中島八郎兵衛」などと刻まれます[1]。こうした碑は、資料に掲載された情報をまとめた限りでは90ヶ所以上で祀られており、そのほとんどが志太地区内にありました[2]。
碑を建てずに八兵衛を供養していたところもあり、焼津市では中村(現在の駅北・中港付近)[3]・花沢[4]・浜当目[5]、藤枝市では郡[3]などがそうだったといいます。このうち、焼津市浜当目では、8月13日から15日にかけて、海岸に手ごろな石を臨時の碑として建てておき、その前に供物や松明を供えて御詠歌を唱えて供養していました。また、島田市船木では、現在では石碑が建てられていますが、もとは八兵衛の絵図の巻物が供養のさいに掲げられていたのだそうです[6]。
八兵衛の供養祭は、多くの場合、8月15日ごろに行なわれます。もともとは施餓鬼風の供養を行うところが多かったそうで[7]、碑の前に青竹などを材料に精霊棚を作り、供物や花などを供え、その前で地区の人々が御詠歌を唱えたり僧侶が読経するなどします。なかには、精霊棚に飾り付けた施餓鬼旗を各家に持ち帰り、虫除けとして畑に刺すところもありました[8]。また、団子を作って参拝者に配るところもあり[9][10][11]、これは地蔵供養などとも類似する風習です。御詠歌については「川中島八兵衛の御詠歌(おしょうや)」を参照してください。
また、八兵衛のお札(護符)を供養祭で配布するところもありました。藤枝市では田沼3丁目(欠差)[5]、焼津市では中新田[5][12]・田尻泉竜寺[13][14]・上小杉[12]が知られています。お札は手書きや木版で、地区の人々の手によって作られます。たとえば、焼津市上小杉には明治5年(1872年)に入手したという版木があり、お札には「紀伊ノ國八郎兵衛長者山カ八ツニ、谷九ツ身ハ一ツ我行末ハ柊ノ里」と刷られます[15]。こうしたお札は、厄除けとして各家の戸口に貼られました。
ただ、祭祀方法は年々省略される傾向にあり[3]、現在では特別な供養は行わないというところもあります[16]。ここまで紹介してきたなかにも、現在では供養の方法が変更された地区や、祭祀自体を行なわなくなった地区もあるでしょう。